神聖なる原子論 玉川「カドワースとモアの機械論哲学と霊的原理」

 カドワースとモアが導入した非物質的原理を論じる論文を読みました。要点が的確に整理されているすぐれた論考です。ここではカドワースとモアの理論の骨子の部分をまとめましょう。デカルトの世界観では、神によって最初に与えられた運動が不変の自然法則にしたがって物質を動かすことで、人間の思惟を除くあらゆる現象を引き起こします。創造後の神による世界への介入を排除しかねないこのような考え方は、無神論に親和的な学説とみなされ警戒されます(カドワースはそれを「機械的有神論者」であり無神論の兄弟と呼んだ)。またデカルトの粒子論はホッブズにより人間の思惟の領域にまで拡張されます。これは霊魂の不滅性を脅かす危険思想でした。

 このような疑惑から機械論的哲学を擁護するためにカドワースとモアは、機械論がよって立つところの原子論について、その起源を神聖なものとします。原子論はレウキッポスやデモクリトスによって発案されたのではない。それはフェニキア人(ないしはシドン人)のモスクス(Moschus)によって考案されたものである。このモスクスとはモーセに他ならないというのです。当初の原子論というのは、世界のうちで物質的原理で説明できる領域を明確にすることを通して、非物質的実体の存在を証明することを容易にしていたのだとカドワースは言います。それをレウキッポスやデモクリトスは単なる物質主義へと堕落させてしまった。いまやこの原初の原子論を復興させねばならないというわけです。

 非物質的原理としてカドワースが導入したのが形成的自然(plastic nature)でした。それは一種の技芸です。しかも人間の技芸のように材料の外側から作用するような不完全なものではなく、物質の内側から作用する完全な技芸です。しかしそれはそれ自体で己がなすことの目的や理由を知っているわけではありません。それはまるで「熟練したリュート弾きの指や上手な舞踏家の足や身体全体は習慣によって規則正しく、秩序づけられて動かされる」ように、自意識をもたずに秩序を形成します。

 なぜこのように形成的自然が認識力の点で劣ったものとされるのか。もし形成的自然自体に最高の認識能力を認めてしまえば、最高存在である神自体が世界全体に浸透しているというストア派とか、それぞれの物質が優れた生命原理をもっているというストラトンの主張とかとカドワースの主張が区別できなくなってしまうからです。ストア派ストラトンの学説は世界を超えた神の存在を用済みにしてしまう点で実質的な無神論だとカドワースはみなしていました。形成的自然の認識力を劣位に置くがゆえに、それを道具として用いる超越的な神の存在を認めることができるというのがカドワースの規定の肝です。

 モアは自らが想定する非物質的原理を自然の霊(精気)(spirit of nature)と呼びます。このような非物質的実質が存在することは、神が物質ではありえないこと、物質は不活性であるのに運動がある以上そのような運動を可能にする非物質的存在がなければならないこと、そして幽霊と呼ばれるような物質では説明できない現象が目撃されていることから証明されるといいます。モアによれば霊魂は(動物のそれですら)滅びず、肉体が滅びると空気や(さらにランクの高い霊魂になれば)エーテルと結合しているので、これがときに幽霊として目撃されます。この他にもダイモンやらジンやらが空気中には存在していて、モアの世界は非物質的実質に満ち満ちています。自然の霊はこれらの個別的霊魂に由来する非物質的実質とは異なり、「感覚や批評力が無く、宇宙のすべての物質に浸透し、その中でそれが作用する部分の雑多な傾向や場合に従って形成的力を行使し、物質の部分や運動を導くことによって単なる機械的な力によっては帰することのできない現象を世界に生じさせる」といいます(ここでどこから運動が来るのかという問題は曖昧にされています)。自然の精気は、たとえば重力や本能の存在(蜘蛛が巣を作ることなど)を説明するとされます。

 原子論の起源を聖書的伝統に求めること、物質とは独立したそれ自体としては認識能力をもたない能動原理を認めることは、アイザック・ニュートンにも見られるものです。この点で、ニュートンにはカドワースとモアの学説の影響が色濃く見られると著者はして論文を結んでいます。