暗黒の中世からニュートンへ ダランベール「百科全書序論」#1

百科全書―序論および代表項目 (岩波文庫)

百科全書―序論および代表項目 (岩波文庫)

 『百科全書』にダランベールが寄せた序文から、学問の歴史について論じた部分を読む。私たちにとってもなじみ深い歴史の見方が鮮明に打ちだされている(カッコのなかは邦訳ページ数)。『百科全書』とは、「学問と技術との合理的[体系的]辞典」(82)である。だがこの本題に入るまえに、伝えるべき知識がいかにして生じてきたかについての歴史的解明を行うのが有用だろうとダランベールはいう。そうすることで、知識を伝えるのに有効な方法があきらかになるからである。

 議論の前提としてまずダランベールは、「諸学の歴史は当然に、その著作が知識の光明を人々の間に普及させるのに貢献した少数の大天才たちの歴史に結びついている」と述べる(82)。このため彼の論述は、著名な人物を中心としたものとなっている。

 ダランベールの歴史記述は、「無知の長い中間時代」(83)からはじまる。この時代には詩も哲学も、技巧と煩瑣さにとらわれていた。この野蛮からの解放には、「地球に新しい様相をとらせるあの革命」(85)が必要であった。ギリシア帝国が崩壊し、そこから知識がヨーロッパへと流入した。印刷術の発明と、メディチ家、およびフランソワ一世の庇護のため、知識が拡散した。こうして「学芸の復興」(82)がはじまる。現在ルネサンスといわれている時代である。そこではまず文献学的研究が行われ、つづいて文学、最後に哲学が行われることとなった。

 哲学の復興が遅れた理由のひとつは、スコラ学の存在であった。スコラ学で教えられていたアリストテレスの哲学は、実際には「古代のアラビア人たちにより注釈されて数多くの不条理ないし幼稚な附加物で変質されたものだった」(96)。だがこれは気がつかれず、それゆえ教えられる哲学を疑うことも行われなかった。

 さらに神学者の一部が、理性が哲学に打撃を与えるかもしれないと恐れ、哲学の自由を制限した。自由によってもたらされる哲学こそが、無神論者を沈黙させるというのにである。神学者たちのなかにはまた、宗教は習俗と信仰についてだけでなく、世界の体系についても教えねばならないと考えた。結果、宗教裁判所で、「ある有名な天文学者」(99)が地動説を支持したとして有罪とされた。「こうして世俗の権威に結びついた精神的権威の濫用が、理性をむりやりに沈黙させた。もう少しで人類は考えることすら禁じられるところであった」(99)。

 だがそんななかでも偉大な人物の著作のなかで哲学は行われていた。その筆頭に来るのがフランシス・ベーコンである。彼は有用な学問として自然学をとらえ、その部門を列挙し、そのおのおのでこれまでになにが知られてきて、またこれからなにが発見されねばならないかを挙げた。この諸学の見取り図こそ、「百科全書の樹」が模範としたものであった。

 続いてデカルトがきた。幾何学者としてデカルトは、代数を幾何に適用した。「この着想は、人間精神がこれまでに持った最も広大で最もすばらしいもののひとつ」である(105)。一方デカルトは偉大な哲学者でもあった。しかしこの方面での彼は幸福とはいえなかった。彼は哲学を一からすべてひとりではじめなければならなかった。それゆえ渦動説のような現在では滑稽にしかみえない学説を提唱することになった。しかしこの学説は当時にあっては最良のものであったし、そこを経なければけっして真の理解には到達しなかったであろう。

 デカルト形而上学も、かつて多くの支持者をえたものの、今日ではかえりみられていない。たしかに彼は生得観念を認めた点で誤った。感官こそ観念の起源であるという逍遥学者が到達した唯一の正しい見解を受けとり損ねたのである。だがこの見解をデカルトが受けとってしまっていれば、それにまとわりついた数えきれない誤謬も受けとることになり、結果としてスコラ学から私たちを解放することはできなかっただろう。

彼は陰謀を企てた人々の首領とみなされることができる。すなわち、彼は[スコラ学という]専制的で放縦なひとつの権力に反対して立ちあがる最初の人物となる勇気をもったのであり、また輝かしい革命を用意することによって、より正しくより幸福な政府(彼はそれが樹立されるのを見ることができなかったが)のいろんな基礎を置いたのである。(107)

 はっきりとは述べていないものの、ここでいわれている「幸福な政府」を樹立したのはニュートンであったと、ダランベールは考えていたようである。ニュートンは引力の数学的定式化や光学の分野において比類ない成果をあげた。また哲学には慎重さを教えた。デカルトがおかさざるをえなかった無謀さを避け、哲学を一定の限界内にとどめるよう教えたのである。形而上学については、ニュートンは多くを語らない。沈黙の理由はわからない。形而上学において自分が見いだした見解に満足していなかったか、形而上学についてはそもそも満足の行く結論はえられないと考えたのか、あるいは自分の権威のもとで自分の形而上学が悪用されるのを恐れたのか。とにかくニュートン形而上学的見解はうかがい知れないので、それについて語るのは控えねばならない。(つづく)