まん延する千年王国信仰 スブラフマニヤム「テージョ河からガンジス河まで」

 グローバル・ヒストリー特集として『アナール』誌の企画「グローバルな規模の歴史」に収められた諸論考を訳出した『思想』2002年5月号からです。被抑圧者による新たな秩序を希求する理念をあらわすものと解釈されることがおおい千年王国の理論に、支配者が利用するイデオロギーとしての側面があったことを指摘し、そのような利用が初期近代においてインドからポルトガルにいたるまでのユーラシア大陸の広範囲にわたって行われていたことを示します。

 千年王国イデオロギーが16世紀にイスラム圏で利用されたのは、ヒジュラ暦1000年が西暦の1592年に相当するため、この時期にイスラム史に深く根付くマフディー信仰(マフディーは世界を改革する存在とみなされていた)が活発化していたためです。16世紀前半のオスマン帝国のスルタン、セリムとスレイマンは、帝国の版図拡大を意義付けるため自らを世界の改革者、征服者として描き出しました。このことによりカール5世とスレイマンが西と東で同時に自らの統治に終末論的イデオロギーを援用するということが起こりました。

 ペルシアではサファヴィー朝創始者シャー・イスマイールが自らを終末に現れるメシアとしています。とあるイタリア人の旅行者はペルシアの「兵士は、シャーが不死であり、永遠に生きるに違いないと言う」と報告しています。実際イスマーイールは自作の詩のなかで自らを、「神の奥義」「父はアリー」「ミリヤムの子イーサー[マリアの子イエス]」「現代の者のアレクサンドロスなり」と言っています。逆にペルシアと交戦したアルメニアの著述家はイスマーイールを「スーフィと称する予言された反キリスト」であり、彼が「アルバニアの諸地方を占領し、カスピ海沿岸にいたるまで大虐殺を行った」と論評しています。

 当時のイスラム世界での千年王国信仰の特徴は、そこにアレクサンドロスの名前が現れることです。すでに見たようにイスマーイールは自らをアレクサンドロスと同一視していました。アレクサンドロスは征服者であると同時に預言者でした。彼に多くの占星術書が帰されています。このアレクサンドロスイスカンダル)が未開の勢力から文明圏たるイスラムを守るとされていました。彼こそがイスラムの普遍王国を築く運命をになっているとみなされたのです。

 インドではムガル帝国のアクバルとその廷臣たちが1570年代より非イスラーム勢力を含めた民衆に訴えるようなメシア信仰イデオロギーを模索しはじめます。アクバルがイスラームの諸教派とイントゥー教の相違を消滅させるという証拠が探されたり、アクバルはアレクサンドロスに勝る征服を行い、寿命はノアをも凌ぐと喧伝されたりしました。

 ポルトガルではマヌエル一世とその周辺で千年王国の理想への熱狂が見られます。彼らはインド遠征を千年王国実現の一歩とみなしていました。インド洋航路開拓はエルサレム征服に続くと考えられていたのです。エルサレムを征服し、第5帝国を実現して東方皇帝にならんとしていたマヌエルは、インドのカリカットの王に対して、ポルトガルのインド航海が可能になったのは地上にインドとポルトガルが共通に神に仕えるようにという神の意志の結果だという終末論的言及に満ちた書簡を送ることになります。彼に仕えていたインド総督アルブケルケは(伝説上の)エチオピアの支配者であるプラスター・ジョンと共同してメッカに進軍にしてイスラム教の本拠地を破壊することを望んでいました(彼はメッカのカーバ神殿ムハンマドの墓だと思っていたようだ)。アルブケルケは言います。

十二使徒によって偶像崇拝が拝され、キリスト教信仰が発展したように、人数も少なく力もない我々ポルトガル人により、ムハンマドとその邪悪な教派を破滅される偉業が開始されますように。

 スペインやポルトガルが版図を拡大していた時代に、偶然イスラム世界が第ニの千年紀を迎えたことにより、16世紀の千年王国運動はかつてないほどの地理的範囲で展開しました。それはまた被抑圧者の利益のみならず、支配者が利用するものでもありました。この時代に世界をつなぐネットワークを形成したのは細菌、動植物、貴金属だけではありません。世界の終わりを差し迫ったものとみなすイデオロギーもまた広域的なネットワークを形作っていたのです。

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