岡本、坂野論文について 『昭和前期の科学思想史』より

 昨日行われた『昭和前期の科学思想史』の合評会での議論を受けて、岡本論文と坂野論文について簡単なメモを残しておきたいと思います。より詳しい報告記は別の人がアップしてくれるでしょう。

昭和前期の科学思想史

昭和前期の科学思想史

 岡本論文へのコメントの中で金山さんは、西洋人と日本人(あるいは東洋人)を軸にして競争に参入しようとする長岡の科学観は、かなり彼独自のものではないかという指摘をしました。仮想敵国に負けない知的・経済的基盤を築きあげることを目的として競争的科学観ならばかなり普遍的に見られるだろうが、ということです。たしかに論文中でも長岡ほど強く西洋人に日本人(東洋人)として伍していくんだという意気込みをもった人間はその後見られないという書き方になっています。ここで考えられる疑問としては、この種の競争的科学観、あるいは学問観というのは、江戸時代につらなる初等教育を受け、その後西洋に由来する高等教育を受けた人々(長岡、夏目漱石森鴎外)に特有なのではないかということです。だとすればそれは時代的横軸を基本に考察されるべき現象です。この論文のように昭和前期になぜ日本で素粒子理論研究が隆盛したかといういわば縦軸の考察のために利用されるべき問題ではないかもしれません。実際、この論文を読む限りでは素粒子理論の発展にとって決定的に重要であったのは、1) 旧制高校で徹底的な語学教育を行い2か国語程度は読める人が多くいた、2) 理学部と工学部・農学部が別れたことで前者に所属する人々は実用性を考えないで研究を出来るという住み分け意識を持つことができた、3) 量子力学の成立により一から理論研究をやり直さなければならない状況が生まれた、という3点が重なったことになったのではないかと思います。長岡が有していたような(その後は見られなくなる)競争的科学観というのはこれらの問題とは別に、むしろ江戸時代から明治への移行の問題としてとらえられるべきではないかと思いました。

 記紀に基づく人種交替パラダイムが、1910年代後半から考古学・人類学がいわば自然科学化されることで乗り越えられたものの、30年代以降はその新たな日本人論が記紀に基づく皇国史観に回収されていくというのが筋です。ここで坂野さんは真ん中にある自然科学化された考古学・人類学が「当初より皇国史観と親和性が高いものだったということもできる」と述べています。この言明の内実はより詰められなければならないと思いました。自然科学化によって行われた人種交替パラダイム批判は、偶然その後台頭する皇国史観と方向性が重なってしまった結果、後者に回収されてしまうことになったのか。それとももとよりこのパラダイム批判自体が、皇国史観と深いところでつながるナショナリスティックな動機を根っこに持って展開されたものであって、それゆえそれと皇国史観との親和性というのは結果論的なものというよりも、パラダイムの批判自体に内在的なものだったのか。

 もう一つはこの論文は記紀をどう用いるかということをひとつの主題としているのだから、記紀が史学のなかでどのような扱いを受けてきたのかということと付きあわせながら、考古学者・人類学者の動きを見ないといけないのではないかということです(中野弘喜さんの指摘)。記紀は当初は人種交替パラダイムを主張するための根拠となり、後には皇国史観の根拠となりました。これは高天原がどこにあるかが分からんために、記紀が非常に柔軟性を持つ文化的資源として機能していたことを意味します。この文化的資源を考古学者・人類学者が利用するに際しては、まず同時代の歴史学者記紀をどう扱っていたかが参照されたはずです。記紀はむき出しの文化的資源として彼らの前にあったのではなく、史学の領域における咀嚼を経由して彼らに到達していたのではないでしょうか。とするならば歴史家もまた史学史を経由せねばいけないことになります。