経験主義者としてのガッサンディ

哲学の歴史 第5巻(17世紀) デカルト革命

哲学の歴史 第5巻(17世紀) デカルト革命

 経験主義者としてのガッサンディを描き出す概説です。ガッサンディについて日本語で読みたければまずはここから入るべきです。1592年にディーニュの町で生まれたピエール・ガッサンディ(1655年没)は、基本的に生活の糧をカトリックの聖職者としてのつとめから得ていました。ただし1616年から22年のあいだエクス大学で哲学教授をつとめており、そこでの講義が最初の著作である『アリストテレス主義者に対する逆説的論考』(1624年)として結実しています。彼はそこでアリストテレスの奴隷となり、哲学する自由を失っているアリストテレス主義者を批判しています。自身の哲学的立場としては「何も知られない」という懐疑主義への支持を打ち出しながら、同時に感覚に基づく経験的学問は可能であり、それは進歩していると論じました。

 ガッサンディは自然への強い知的好奇心を有していました。これは南仏プロヴァンスで彼と親交を結び、またその庇護者ともなっていたエクスの高等法院評定官ペイレスク(1580–1637)が醸成していた知的環境に負うところもあったと思われます。ガッサンディは天体観測、雪の結晶観察、生物の眼の解剖、大気圧測定、そして移動する船の帆柱から落とされた球が移動していない船で落とされたのと同じ動きをすることを確かめる実験を行いました。自然研究と並ぶガッサンディの活動の柱であるエピクロス哲学研究は、1626年にはすでに開始されていました。当初はアリストテレス哲学反駁の一環として構想されていたこの事業は、次第にエピクロスその人の擁護に向かいます。最終的には1628年から29年にかけてのオランダ旅行でのベークマンとの出会いをきっかけに、エピクロス哲学の全面的復興をガッサンディは目指すことになりました。

 エピクロス哲学の研究は1637年のペイレスクの死によって41年まで中断します。その中断の直後にデカルトとのあいだの有名な論争が起こりました。ガッサンディデカルトがとなえる絶対に確実な知識の基礎付け方法を批判します。「私は考えるゆえに私はある」というのは「考えるものはある」という命題を前提にしているので、第一真理ではない。神の完全性に依拠するデカルトの議論は循環している。観念は感覚に由来するので生得観念はない。概念的区別から霊魂と身体の実体的区別を導くことはできない。ガッサンディによれば神の存在は世界に見られる目的性の観察から証明できる。また霊魂の不死性は信仰箇条に属する問題であるとします。

 しかし原子論が前提とする機械論と自然の合目的性の観念は両立するのでしょうか。また原子論が要請する霊魂の物質性の学説はキリスト教の教義と両立するのでしょうか。死後出版された『哲学集成』では、原子論的自然観は崩され種子という観念に目的論的能力を認めるということが行われています。同時に人間霊魂は非物質的であるとして、原子論的物質主義の一貫性を破綻させています。

 しかしたとえ物質主義者としての一貫性は保てなくとも、ガッサンディが保っていた一貫性がありました。それは知識は感覚から出発し、事物の認識へと漸進的に接近していくという経験主義の立場でした。