ガッサンディによる自由意志の確保

Divine Will & Mechanical Philosophy

Divine Will & Mechanical Philosophy

  • Margaret J. Osler, Divine Will and the Mechanical Philosophy: Gassendi and Descartes on Contingency and Necessity in the Created World (Cambridge: Cambridge University Press, 1994), 81–101.

 ガッサンディ決定論と自由意志の問題について与えた回答を論じた部分を読みました。古代から哲学者たちは運命の問題に取り組んできました。ストア派は神であるところのロゴスが万物を統御するのだから、すべては運命に即して生じるという決定論をとなえました。一方エピクロス派は神は一切世界に介入しないとして摂理を退け、同時に原子の逸れを導入することで、決定論を避け人間の自由意志を確保しました。人間の自由意志の問題はキリスト教の教義上も議論の焦点となります。カルヴァンの予定説よる自由意志の否定はカトリックサイドからの反論を招きました。

 ガッサンディは世界は神の摂理のもとにあるのだから、運命(宿命)というのは確かに存在すると考えました。運とか偶然とか人々が言うのは、人間がそれを予見できなかっただけで、神はそれを予見していたというのです。しかしもし神により定められた運命によってすべてがあらかじめ予見されているなら、人間の自由意志はなくなり、人の行為に倫理的責任を問えなくなるのではないか。

 この問いに答えるにあたってガッサンディはまずエピクロスによる自由意志の確保の仕方は無効だとしりぞけます。エピクロスは原子の運動は確かに必然的だけれど、それは時に逸れることがある。この必然的因果連鎖のほころびが自由意志を保証すると答えました。しかしガッサンディによれば逸れもまた原子の自然的な性質なのだから、それは必然的な因果連鎖を構成してしまいます。

 そこでガッサンディは自由意志を確保するために独自の解決策を与えます。彼によれば必然によって起こるということには2種類の意味があります。たとえば昨日のあとに今日が来るというのは絶対的な必然性です。しかしあなたが明日家を建てるということは、あなたがそう考えている限りにおいて必然的です。したがってペテロがキリストのことを知らないと言うことは、ペテロがそう望む限りにおいて必然的であり、神による予見とはペテロがそのように意志するであろうということを知っているということです。神は全知であるがゆえにペテロの自由意志に基づく選択の結果を知っている。しかしこのことは神の予見がペテロの否定を引き起こしたことを意味しません。否定はあくまでもペテロの意思にもとづいて起こったのです。こうして神の摂理と人間の自由意志が両立することになります。(エピクロスと違ってガッサンディは人間霊魂を非物質的と考えるので、原子論と人間の自由意志の両立は問題にならない)