スキナーによる思想史の方法 スキナー「思想史における意味と理解」

思想史とはなにか―意味とコンテクスト (岩波モダンクラシックス)

思想史とはなにか―意味とコンテクスト (岩波モダンクラシックス)

 1969年に出された思想史の方法論についての有名な論文です。思想史研究者があるテクストを理解しようとするさいに、これまで2つのアプローチが取られてきました。一つは、テクストの意味を決定するのは政治的であったり経済的であったり宗教的であったりするコンテクストだとするものです。対してもう一つはテクストの自律性を強調して、その外部のコンテクストへの参照をしりぞけるものです。

 第二の立場は、古典的テクストが時代や地域を超越した普遍的価値を持つと想定するところから生まれます。普遍的な価値を持つ以上はそれが特定のコンテクストに制約されているはずがない。この立場は当の思想史研究者が関心をもつことがらが、古典的テクストの作者によって考察されていたはず(ないしは考察されるべきであった)という確信にもとづいています。この確信を非難することはたやすいけれど、実はこれは不可避の確信でもあります。なぜならある作家の作品を研究するときには、その作家が言ったことの内容について予想をつけることが不可避であり、それゆえ研究者の側に観察者としての心の構えが生じてしまうからです。

 このような解釈者側におけるパラダイムの先行は過去の思想家についての誤解を生み出しました。たとえば用語の類似性をもとに中世の作家のうちに、立法権力から執行権力の分離というアメリカ革命以来の問題を「発見」してしまうことになります。またありもしない統一性を過去の作家の思想に読み込み、矛盾を解消しようとする試みがなされます。過去のテクストに現れる自分にとって異質の考えを、自分に馴染みのある観念に思想家が置き換えてしまうということも生じました。社会人類学において共有されているこの危険性の自覚が思想史では「破滅的なほど欠如している」(80ページ)。

 のみならず扱うテクストのみに専念するアプローチは、重要な言葉が意味することが時代とともに変化することに対応できません。またある作家が自分のいいたいことを直接的に表現することを拒否している場合に、問題のテクストにだけ着目していては作家の真意に至ることは不可能です。ある観念を実体化してしまう観念史の手法は、ある表現の出現に着目したとしても、それがどう使われているか、またどのような狙いで使われているかを明らかにできません。しかし観念の意味とはまさにその使われ方のなかにあるのです。

 よってコンテクストにそった読みをとるべきなのか。たしかにコンテクストを考慮することで、ある作家がそもそも何を意図することができたかということを明らかにすることができます。これにより解釈者の先入観からありえない思想を過去の作家に発見することを避けることができます。しかしコンテクストはある作家がある発言にある意味を持たせることで何を成し遂げようとしたのかを決定することはありません。コンテクストはただこの意図がどのようなものでありえたかという範囲を限定してくれるだけです。

 思想史研究者はテクストの自律性を認めるのでも、コンテクストの決定的重要性を認めるのでもないアプローチをとらねばなりません。それはテクストを理解するときには次の二つのことを把握せねばならないと認めることです。第一に、そのテクストで作者が何を意味しようと意図していたかを把握すること。第二に、その意味がどのように読み手によって受け取られるよう作者が意図していたかを把握することです。「書かれるべき観念史など何ら存在せず、存在するのはただ、観念を用いるさまざまな主体、および彼らがそれを用いたさまざまな状況や意図に焦点を合わせた歴史のみである…」(98ページ)。