デカルトにとっての実体 スコラ学の罠 Pasnau, Metaphysical Themes 1274–1671, ch. 8

Metaphysical Themes 1274-1671

Metaphysical Themes 1274-1671

Robert Pasnau, Metaphysical Themes 1274–1671 (Oxford: Clarendon Press, 2011), 135–58.

 Pasnauの大著からデカルトの実体論をとりあげた部分を読みました。スコラ学の敵対者としてデカルトは知られています。しかし彼はスコラ学から重要な区分を受け継いでいました。その区別とは直接的に感覚できる性質と、それを支える実体という区分です(付帯性と実体の区分)。デカルトの考えでは、感覚によっては実体はとらえられず、精神のみがそれをとらえることができます。なぜこの区別をデカルトは残したのでしょう。その理由の一つは事物の同一性を保つためでした。もし(ホッブズの考えるように)感覚できる付帯的性質というのは実は物体のことである。実体というのは物体である。したがって性質は実体である。こう考えられるとしましょう。するとある事物の付帯的性質(たとえば色)に少しでも変化が生じれば、実体のレベルで変化が生じたことになります。これはたとえばリンゴに少しでも傷がつけばリンゴでなくなるとみなすようなもので、不合理な結論に思えます(りんごの例はデカルトは用いていないですけど)。

 デカルトによって物体の実体は延長であり、精神の実体は思惟でした。デカルトにとっては延長するものであることと、思惟するものであることは物体と精神の主要な性質であるものの、それらにより物体と精神のすべてを語ることができるとは彼は考えていませんでした。もし物体と精神の性質にまつわるすべての問題を解くことはできずとも、すくなくともそれらの主要な性質を規定しさえすれば、神の存在と霊魂と身体の区別という問題は解決できると彼はみなしていました。しかしこの点はガッサンディの批判の的となりました。実際デカルトの理論から事物の個体化の問題を説明することは困難なように思えます。デカルトはまた時に精神を思惟する能力と規定しています。しかし、思惟することをその主要な性質とするものに、思惟する能力を帰して満足することは、アヘンに眠らせる力を帰して満足していたスコラ学と何が違うというのでしょう。結局のところ彼は実体としての延長についても思惟についても十分に明晰に語れていないのではないでしょうか。

 デカルトはスコラ学から逃れてみずからの哲学を理解可能なものにしようとしました。しかし彼は実質的には実体と付帯性を区別を温存し、それゆえ実体を知ることはできないというスコラ学が陥ったのと同じ不透明性にからめとられていたのです。