パスツールの「正しさ」 自然発生をめぐる論争

七つの科学事件ファイル―科学論争の顛末

七つの科学事件ファイル―科学論争の顛末

  • H・コリンズ、T・ピンチ『七つの科学事件ファイル:科学論争の顛末』福岡伸一訳、化学同人、1997年、151–171ページ。

 「科学論争に勝利するのは事実を正しくとらえた陣営である」という考え方に挑戦した有名な研究書から、19世紀中頃の自然発生説をめぐる論争を扱った章です。

 条件次第では生物が無生物から発生しうるかどうか。この問いに答えるために有効だと考えられていたのは次のような実験でした。フラスコの中によく殺菌処理をほどこした(栄養分に富む)溶液と空気を入れておく。これに時間がたってもカビが生えれば栄養分という無生物から生物が発生したことになり、自然発生が認められる。反対にカビが生えなければ自然発生は否定される。

 しかし理屈としてはそうでもこの実験を行ったからといって簡単に自然発生の有無についての論争が収束するわけではありませんでした。なぜなら溶液と空気の殺菌処理が適切に行われたと言いうる明確な指標はなかったからです。とくに自然発生を否定する側からすれば、たとえカビが発生したという結果が出たとしても、その発生をいつでも殺菌の不十分さに帰すことができました。自然発生を否定するパスツールは、論敵であるプーシュがカビの発生から自然発生の論じたときに次のように述べて反論しました。「プーシュの実験は十分注意深く行われているとは言えない。(カビを含んだ)外気が実験途中に混入した可能性がある。したがって厳密な精度の実験に基づく結論ではない」(161ページ)。実際パスツール自身の実験でもたびたびカビの発生が起こっており、彼はその原因を「何らかの操作ミス」により菌がフラスコに混入してしまったことに帰していました。

 ここから分かるとおり、パスツールにとって自然発生の存在を否定する結果の実験が成功であり、肯定する結果の実験は失敗でした。彼は最初から自然発生はないという確信をいだいており、その確信を基準に実験の成功・失敗を判断しています。この確信は結果的に正しいものでした。しかしもしそれが「結果的に間違った仮説を信奉するものだったとしたら、私たちはその行為を容赦なく『科学的事実を前にしてなお頑迷に自説を盲信する態度』としたはずである」(163ページ)。

 パスツールとプーシュの論争はその後も続きました。しかし論争を裁定する立場にあった科学アカデミーの委員会がパスツール寄りの人物によって固められてしまったことにより、プーシュは実験結果の提出と再実験とを断念してしまいます。結果として自然発生を否定するパスツールの学説が正しいものとされました。とはいえ現代の目から見ると、プーシュにまったく望みがなかったわけではないように思えます。というのもプーシュが使っていた溶液は、その性質上煮沸した程度では内部のカビの胞子が死滅しないことが(いまでは)分かっているからです。よってその他の局面でどれほど念入りに殺菌をしてもこの溶液を使う限り、必ずカビは発生したでしょう。

 ではもしそういう実験結果をプーシュが提出したら委員会は彼に軍配を上げたでしょうか。それはなかったはずです。なぜなら自然発生を否定するパスツールの学説は、ダーウィンの進化論(これは自然発生説を根拠としている)に反対するための根拠を提供するものと当時フランス科学アカデミーに認知されていたからです。アカデミーにとってみれば、自然発生説も進化論も過ちとされることを宿命付けられた誤謬でした。

 殺菌に関する当時の知見の枠内では、フラスコ内の溶液にカビが発生するかいなかで自然発生説の是非に判定を下すことは困難でした。パスツールはこの困難に悩まずひとつの立場を選択しました。それが結果的に正しいものであったことにより、彼は論争の勝利者として今日まで語り継がれることになったのです。