- 作者: ジョルジュデュビー,Georges Duby,松村剛
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 1992/09
- メディア: 単行本
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- ジョルジュ・デュビー『ブーヴィーヌの戦い 中世フランスの事件と伝説』松村剛訳、平凡社、1992年、121–155ページ。
ブーヴィーヌの戦い(1214年)を人類学的に理解することを目指す第2部から、傭兵と騎馬試合についての箇所をまとめました。要約を拒む文体で書かれているので、ぜひ書物を手にとってほしいところです(翻訳もすばらしい)。しかし古書にはすさまじい値段が。
12世紀前半に交換経済が活発になると、諸侯は金銭を支払うことで封臣による軍事奉仕をより確実で強固なものにしはじめます。これと同じ12世紀初頭に傭兵の存在は確認されはじめます。金で雇われ、また金次第では誰にでもつく戦闘集団です。しかしその数はまばらでした。事態が変わるのが12世紀半ばであり、そのころから「遠国から鳶(とんび)のように飛来し、略奪しか念頭にない放浪者、規律なき者たち」が大量に現れるようになります。「コトゥロー cottereau」と呼ばれ、ブラバント人、アラゴン人、ナバラ人、バスク人、ウェールズ人と言われた彼らは、庶民、貧民、肉屋の下働き、下位聖職者くずれなどの階層から集められていました。傭兵は非常に有効な戦力である一方、大変金がかかりました。諸侯のなかには傭兵への支払いのために、僧院を略奪し、市民から強制的に金銭を借り上げる者もいました。こうして傭兵集団は貨幣を流通させ、その量を膨張させるという経済的役割を結果的に担うことになったのです。
傭兵はキリスト教世界を汚す異端ととらえられていました。第3回ラテラノ公会議(1179年)では「疫病、異端のごとき集団」である傭兵を保護するものを断罪する決議が下されます。実際傭兵はしばしば襲われ抹殺されました。ベリー地方のダン=ル=ロワでは移動中の傭兵集団がキリスト教的な戦士の集団に包囲され、残された記録によると7千から1万人ほどが殺害されました。そこには「目の飛び出るくらい豪華な衣装をまとった500名から900名の売春婦」の死体が残されていました。彼女たちは平和をもたらす戦士たちによって陵辱されてから殺害されたのです。
12世紀には傭兵以外に、フランスでの軍事活動に一つの画期がもたらされます。騎馬試合の熱中が高まったのです。12世紀の終わりごろの北フランスでは「ほぼ2週間に一度は、どこかで騎馬試合が行われていた」。試合には戦争を禁じられ暇をもてあましているものの、まだ嫁を与えられておらずそれゆえ「大人」ではなく「若者」である騎士たちが主に参加していました。騎馬試合とは集団戦であり、敗れ捕虜となったものは馬具や馬を奪われるばかりか、身代金を払うことになりました。このため騎馬試合は、大規模に富が移動する場でした。このため名声のある競技者は莫大な値で雇用されることになります。しかし騎馬試合は騎士個人の名誉がたたえられる場でもありました。最優秀騎士には賞が女性の前で与えられ(あるいは貴婦人たちが手ずから武勇の象徴を与え)、そこにおいて商人や傭兵にはない武勇という徳目の価値が確認され顕彰されたのです。
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