ダイグロシアから二重言語体制へ 大黒『声と文字』第1章

声と文字 (ヨーロッパの中世 第6巻)

声と文字 (ヨーロッパの中世 第6巻)

  • 大黒俊二『声と文字』岩波書店、2010年、21–50ページ。

 今日はピーター・バークの講演 "Diglossia in Early Modern Europe" を聞きにいきました(まとめはこちら)。というわけで講演で主題的に取り上げられていた「ダイグロシア」と深く関係する文献を紹介しましょう。ローマが築いたバベルの塔がいかに崩壊したかの話です。

 ローマの支配は言語の統一をもたらしました。帝国内ではラテン語が標準言語となります(ただし東方ヘレニズム世界ギリシア語が使われ続けたり、ブリタニアラテン語が浸透しなかったりということはあった)。西ヨーロッパではこの言語的統一が二つの要因から崩壊しました。第一にラテン語ロマンス語に変化することによってです。文語のラテン語と口語のラテン語の乖離はすでに古代から生じていました。しかしこの乖離は両者のあいだで意思疎通を不可能にするところまでは進んでいませんでした。古典的なラテン語を修めた教会知識人たちが教化の必要性から民衆のラテン語アウグスティヌスはこれを「日常の単純な言葉」と呼んだ)に関心を持ち続けたからです。このため8世紀にいたるまで同じラテン語が、公的な場での高次変種と、非公式な場での低次変種に分かれて用いられるという「ダイグロシア」の状態が続きました。

 ダイグロシアに終止符を打ったのが、カロリングルネサンスによる言語改革です。シャルルマーニュラテン語を古典的なものへと回帰させ純化しようと試みました。これにより文語のラテン語と、民衆が話す言葉の乖離は決定的となり、民衆の言葉がロマンス語として独立するようになります。近年の研究では、この乖離の拡大が700年代の終わりの数十年間に急速に進んだとする学説が有力です。以後はラテン語ロマンス語二重言語体制が確立することになります。

 西ヨーロッパの言語的統一を破った第二の要因は、侵入した民族が持ち込んだゲルマン語でした。この言語は当初文字に書かれることはありませんでした。ゲルマン人支配層の多くは、おそらくラテン語とゲルマン語のバイリンガルであるものの、ラテン語を書くことはできず、またゲルマン語を書く術をしらない(というか術がなかった)という状態であったと推測されます。この状況が変わるのが8世紀にブリテン島から大陸にやってきたアングロ・サクソン修道士たちでした。これを皮切りにラテン語で伝えられてきた教えをゲルマン語で書き記す試みがすすみます。福音書をドイツ語の韻文に翻案したオトフリート・フォン・ワイセンブルクは「この粗野なる言葉は野蛮にて、訓育され得ず、しかもまた、文法学の規則的なる手綱により捕らえられるにも不慣れなり」として、ドイツ語をラテン・アルファベットで書き記すことの困難を伝えています。

 一方ラテン語が根付かなかったブリテン島と、ローマ人が来ていなかったアイルランドでは、ラテン語アングロ・サクソン語、ないしゲール語を話す人々にとっては完全に異質な、教会と聖職者の言葉として迎え入れられました。ラテン語が完全な外国語として入ったために、これらの島では『名詞の格変化』のような初学者向けの文法書が編まれます。外国語としてのラテン語を読みこなすための読み方の工夫も考案されます。たとえば句読点、段落表示の工夫が発達しました。とりわけ大きな意味を持ったのが、分かち書きの誕生です。単語と単語のあいだに空白をもうけない連続記法に代わり、初学者にも読みやすくするように単語ごとに区切って表記する技法が編み出されました。この分かち書きは大陸にも流入し、黙読という習慣を普及させることになります。