集まり意見を述べることの歴史 モミリアーノ「言論の自由(古代における)」

 古代の多くの文化圏では定式化されていなかった言論の自由の享受という状況が、どの程度実態として実現されていたかを探る事典項目を読みました。メソポタミアからローマにまで話が及ぶため、ついていけないところも多々あります。紀元前2000年代のアッシリアバビロニアは中央集権的帝国であり、王への異議が唱えられ、それが政策に生かされるという環境にはありませんでした。例外的にヒッタイトでは、王が政治的集会の決定を尊重せねばなりませんでした。紀元前1000年代のシリア、パレスティナには長老会議と人民集会の存在が確認され、それらは反乱の導火線となるなど一定の影響力を有しました。アケメネス朝ペルシアでは、王は私的な助言者に頼ることはあったものの、人民のあいだでの政治的討論は行われませんでした。ヘブライの部族は集会と長老会議を有しており、これらは王制下ですらその機能を果たし続けました。また思いがけない形で神の言葉を伝える預言者言論の自由の一形態として理解できます。エジプトでは神聖王権への異議を表明するための制度はなく、諦念や沈黙を唱える記録が残されています。

 ギリシアで政治的言論の自由アテナイに負う度合いを過大評価しすぎてしまうことに注意せねばなりません。何しろ他の都市についてはほとんど記録がないのですから。しかしそれでもアテナイで制度的に裏付けられた大きな言論の自由が確保されていたことは確かです。市民はみな民会(エクレシア)に提案を提出し、発言することができました。しかし一方で知的自由の制限は行われており、アテナイの神々を否定したり気象現象について新説を唱えることは禁じられました(前432年頃)。知的自由の制限はソクラテスの刑死を引き起こしました。プラトンアリストテレスに明らかな民主制への不信が生まれます。

 ペルシア戦争を経て自由(エレウテリア)はペルシアの専制政治と対抗するギリシアの政治制度を特徴付けるものと自負されるようになり、イセゴリアやイソノミアという単語が民主制を指すようになります。一方バレシアという単語が主として政治的な言論の自由を指すものとして多用されるようになります。パレシアはアテナイ市民の誇りでした。しかし民主制が衰退し寡頭的支配が生じると、権力者のあいだではパレシアは私的な徳(率直に発言すること)として評価されるようになり、政治的権利としての意味合いを失っていきました。一方哲学教育を受けた人々は横暴な王や皇帝に対する自由な発言を評価しました。パレシアは哲学者の徳となったのです。

 共和政期のローマでは自由に発言する自由は権力を有するひとだけに認められるという考えが一般的でした。言論の自由は権威の領域に属していたのです。帝政期になるとより言論の自由が制限され、権力者へのこびへつらいが横行し、社会を毒する悪徳として批判されるようになります。

 キリスト教への弁護や批判が言論の自由という論点から行われた形跡はありません。しかしパレシアという単語はキリスト教の教義のなかで意味の変容をこうむりました。それはいまや信仰を持つものが特権的に有する神に対する自由を意味するようになったのです。とりわけこの特権は殉教者と聖人が有するとされました。