神学による自然学の再定位 Leijenhorst and Lüthy, “The Erosion of Aristotelianism

The Dynamics of Aristotelian Natural Philosophy from Antiquity to the Seventeenth Century (MEDIEVAL AND EARLY MODERN SCIENCE)

The Dynamics of Aristotelian Natural Philosophy from Antiquity to the Seventeenth Century (MEDIEVAL AND EARLY MODERN SCIENCE)

  • 作者: Cornelis Hendrik Leijenhorst,Christoph Luthy,J. M. Thijssen,Cees Leijenhorst
  • 出版社/メーカー: Brill Academic Pub
  • 発売日: 2002/07/01
  • メディア: ハードカバー
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  • Cees Leijenhorst and Christoph Lüthy, “The Erosion of Aristotelianism: Confessional Physics in Early Modern Germany and the Dutch Republic,” in The Dynamics of Aristotelian Natural Philosophy from Antiquity to the Seventeenth Century, ed. Leijenhorst, Lüthy and Johannes M. M. H. Thijssen (Leiden: Brill, 2002), 375–411.

 プロテスタント圏での自然哲学の変容について独自の視角から切り込んだすぐれた論文です。着眼点がよいだけでなく、論文としての構成もしっかりつくってあるので、およそ歴史学の論文を書くに当たっての参照項として利用することもできます。もう読むのは3度目でこれ以上読み返すのはいやなので以下で詳しめにまとめます。

 中世においてアリストテレスの哲学が流入したことにより、聖餐式の問題はアリストテレス主義の術語で論じられるようになります。同時に教義である聖餐式を十分に説明できるような形にアリストテレスの自然学も組み替えられました。ではこれと同じことが宗教改革後のプロテスタント圏でも起きていないでしょうか。聖餐式を巡る議論がアリストテレスの自然学の改変をもたらしていないでしょうか。聖餐式で起きていることをめぐって宗派間で鋭い対立があったことを考え合わせるならば、これは検証するに値する仮説です。

 カトリック聖餐式の際にパンとぶどう酒がキリストの血と肉に変化するといいう教説を支持していました。これをルターもカルヴァンも拒否します。しかし彼らはツヴィングリのようにパンとぶどう酒は象徴的な意味で血と肉になるのであり、フィジカルにはそれはパンでありぶどう酒であるにすぎないという学説には組しませんでした。ルターもカルヴァンもパンとぶどう酒は、パンとぶどう酒でありながらキリストの血と肉でもあると考えたのです。このことを説明するためにルターは、キリストは昇天後は神となっているのだから、その身体は神そのものと同じく遍在しうる。よって儀式の際のパンとぶどう酒にその身体が宿ってもおかしくないと主張しました。この主張の論拠として、天使のように必ずしも特定の場によって囲まれた形態でなく場所を占めるものがあるのだから、キリストの身体にも遍在という独自の場所的性質を認めてもよいというものがありました。これに対してカルヴァンは、いかにキリストの身体といえどもやはり特定の区切られた場所しか占めることはできず遍在はできないとし、ルターを否定します。彼によれば聖餐式のパンとぶどう酒がキリストの身体であるのは、そのパンとぶどう酒を通じて(聖霊の助けにより)私たちが別の場所にあるキリストの身体と結合できるからであるとしました。

 以上の議論からわかるように、聖餐式におけるキリストの身体のあり方を説明する際の要となったのは、場所を巡る議論でした。ルターの考えに従いルター派の人々は、境界に区切られていない形での場所的存在がありうるということを主張します。アリストテレスにとってある物体を占める場所とは、それを取り囲む物体の境界面のことでした。この場所観に立つと、天の最外天は何ものにも囲まれていないので少なくともアリストテレス的な意味では場所を持たないことになります。よってアリストテレス的場所は万能ではない。キリストの身体のような場所的に遍在するものも認められる。こうルター派神学者は論じました。

 これに対してカルヴァン派のBartholomäus Keckermannは攻撃を加えます。アリストテレスの場所の定義は、取り囲む物体の境界面ではない。だから最外天についての議論は、アリストテレスの場所の定義から外れたものの存在を許しはしない。よってルター派の議論に根拠はないというものでした。ルター派聖餐式論がアリストテレスの場所論に依拠していたことを突いて、その土台であるアリストテレスの場所論自体を読み替えることで、ルター派の根拠を突き崩そうというのです。これに対してルター派のBalthasar MeisnerはKeckermannのアリストテレス解釈を退けたあとに、独自の場所理論を提示します。場所というのはある事物が他の事物とのあいだに取り持つ関係性のことに他ならない。とすると神が最初に創造したものは、他にものがない以上この意味での場所は持たないことになる。ここから多様な場所のあり方がひらけ、ここに遍在するキリストの身体というルター派の考えを入れることができるというわけです。一方カルヴァン派のConrad Vorstiusは、場所というのは(アリストテレスが考えていたのとは異なり)ある物体が占める空間に他ならず、この意味で(神を含め)いかなるものも何らか特定の場所を占めていなければならないとして、キリストの身体に特権的な場所的性質を与えることに反対しました。ここにおいてアリストテレスの術語を使って行われていた宗派間での聖餐式を巡る議論は、反アリストテレス的な空間論を支持することになります。

 同じように宗派間の対立は物質観にも改変をもたらしました。ルター派のNicolaus Taurellusは確かな形而上学によってすべての学問を基礎づけることで、神学的対立を解消し、それにより宗派間の対立をもなくすことができると考えました。この形而上学の基礎に彼が置いた考えが、すべてのものが神を含めた、それ自体で単独した独立の一者であるという考えでした。世界はこのような一者の組み合わせとなります。一者たちは組み合わされたからといって、混じり合ってべつの一者を形成しません。それらは単におのれの性質を維持しながら集合体を作っているだけです。これは原子論に他なりません。実際にTaurellusははっきりと世界の基本的構成単位を原子と呼んでいます。神学的関心に駆動された原子論はすでに取り上げたカルヴァン派のVorstiusにも見られます。彼もまたやはり神を単純で、不可分で、延長を持ち、不変のものと規定し、この規定を他のすべての事物に拡張しました(もしかするとTaurellusの影響下にあったのかもしれない)。しかしこの帰結はカルヴァン派にとって許しがたい帰結をもたらします。このような神にとって意志というのは付帯的なものなので、神は意志を変えうることになります。すると人間の行いに応じて神が救済の予定を変えることも可能となり、予定説が否定されます。この危惧から多くのカルヴァン派神学者がVorstiusを攻撃しました。Taurellusの立場を引き継いだDavid Gorlaeusになると、原子論の立場はアリストテレスの質料形相論と鋭く対立する立場として提示されるようになります。TaurellusやVorstiusがアリストテレスの学問を改革して宗派対立に対処しようのとは対照的に、もはや原子論が反アリストテレス主義の性質を帯びたのです。

 宗派的な関心に端を発する神学的議論が、プロテスタント神学者たちの場所や物質をめぐる自然学的な議論を強く導いていたことが確認されました。ここでの神学的議論とは、アリストテレスにもとづいたものでした。アリストテレスは当初ルターやカルヴァンによってカリキュラムから追放されたものの、さまざまな必要性から再導入され、アリストテレスに基づくプロテスタント神学が作られていたのです。しかし興味深いことに、この神学の内的な発展はついにはその土台にあったアリストテレスの基本的諸学説を掘り崩すような教説を支持する者たちを生み出しました。プロテスタント圏においてアリストテレスは二度放棄されたのです。