考古学と突き合わされるアブラハムとモーセ 長谷川『聖書考古学』#2

聖書考古学 - 遺跡が語る史実 (中公新書)

聖書考古学 - 遺跡が語る史実 (中公新書)

  • 長谷川修一『聖書考古学 遺跡が語る史実』中公新書、2013年。

 第3章以降は考古学の痕跡と文献学の史料の双方を批判的に検証しながら史実を再構成するという作業が実践されます。そこであらわれる歴史の姿は旧約聖書の記述の信憑性を突き崩す破壊的なものになります。だからこそ興奮を誘う。特に面白いのがラクダの話です(76–82ページ)。アブラハムからその孫ヤコブにいたるまでのいわゆる「族長時代」の出来事を記した旧約聖書の箇所にはラクダが頻繁に登場します。族長時代は聖書の記述から判断するに、紀元前2160年頃から1870年になります。しかし実は考古学的痕跡からも、この時代の文書史料からも、紀元前2000年頃にはラクダはまだ西アジアで家畜化されていなかったことがわかります。家畜化がなされたのは紀元前二千年紀の末、つまり紀元前1000年に近い時期でした。旧約聖書にあるアブラハムたちについての記述は、このラクダが家畜化された時代以降の人々によって文字として記されたと考えられます。

 もう一つ興味深いのは「出エジプト」についての議論です。旧約聖書ではモーセに率いられてエジプトを脱出したユダヤ人がパレスチナにいた先住民族を征服したことになっています。しかし考古学的調査からはむしろ、元来パレスチナの山地に住んでいた人々が、じょじょに平野部に進出していたことが推測されます。この人々が後に自分たちをイスラエル人として認識しはじめたのではないかと多くの研究者はみなしています。しかもある学説によれば、この山地に住んでいた人々は、平野に住んでいた人々から分かれたものとされます。となると、イスラエル人による先住民族の駆逐とは、元来は「同胞」であった人々との抗争ということになります。もしイスラエル人が元来パレスチナに住んでいたとすると、彼らがエジプトから来たという「出エジプト」の伝承の史実性は疑わしくなります。実際、出エジプトを裏づける聖書以外の記録はありません。もちろん、イスラエル人となった人々の一部が祖先の記憶として伝承していた史実がそこに反映されている可能性はあります。近年はヒクソスという王朝のエジプトからの追放とイスラエル人の出エジプトを結びつけるヨセフス(!)の記述を真剣に考慮せねばならない発掘成果も出ているようです(104–105ページ)。著者の結論は以下のようなものです。

本書の著者自身は、現在入手できる資料のみから、出エジプトの年代やルートについて生産的な議論をすることはきわめて難しい、と考えている。むしろ、こうした伝承が成立した時代に目を向けて、この伝承が当時の読者に伝えようとしたメッセージや、伝承をまとめた人物の意図などを明らかにする方が、たとえそれが虚構であれ本当に起きた事件であれ、イスラエル史における出エジプトという出来事の重要性につてより有意味な議論ができよう。(216ページ)