The Cambridge History of Science: Volume 2, Medieval Science
- 作者: David C. Lindberg,Michael H. Shank
- 出版社/メーカー: Cambridge University Press
- 発売日: 2013/10/07
- メディア: ハードカバー
- この商品を含むブログを見る
- Vivian Nutton, "Early-Medieval Medicine and Natural Science," The Cambridge History of Science, Volume 2: Medieval Science, ed. David C. Lindberg and Michael H. Shank (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), 323–340.
古代末期から初期中世にかけての医学史の概説である。非常に水準が高い。古代末期の医学に大きな変化をもたらした要因の一つにキリスト教がローマ帝国における公認宗教となったことがある。これにより医学を含む自然探究への態度が変容した。自然のうちにある原因にもとづいた説明は、しばしば奇跡にもとづく説明にとってかわられた。医療行為を実践するものはしばしば魔術を行うものとして批判された。とはいえキリスト教側からの医療への抵抗を強く見つもりすぎてはいけない。人の手による治療よりも信仰による回復を望み、また現世の肉体よりも来世での霊魂の生に重きをおいていたとはいえ、やはりキリスト教徒も必要があれば医療行為を受け、それを実践していた。キリスト教が生みだしたまったく新しい制度はむしろ病院である。これは慈善(caritas)を重要な徳目とする教えよりまずは東方で成立し、広がり、やがては西方にも設置されるようになった。ただ病院の設置がどれほどのインパクトを患者なり社会なりに与えたかは不透明である。
300年から600年のあいだに医学がいかなる状態にあったかはいまだに論争の対象となっている。一つの見方は、この時期の医学はそれ以前と比べてほとんど変化しなかったというものだ。数々の証拠がそれを支持している。もし医学が停滞したと思われるなら、それはガレノスのような水準の著述家が現れなかったことの反映に過ぎない。もう一つの見方は、この時期に医学は停滞し、その停滞は当時の社会状況を反映したものだったというものである。入手できる書物の数も、著述家の数も減り、言及される経験的知見は過去のものの繰り返しばかりとなった。少数の都市にしか医者がいないという証言が目につきはじめる。あれほど深く広く探求された病気についての理性的説明が放棄され、悪魔や罪に原因を求めることが頻繁に行われる。ようするにローマ帝国が分裂し、崩壊する状況のなかで、医学もまた衰退したというわけだ。これらのうちのどちらの見方が正しいのかを見極めるのは困難である。
ローマ帝国が崩壊すると、東側のギリシア語圏ではガレノスの医学が権威として確立する。その医学は体系化され、ガレノス本人が示していた留保やためらいは消去され、正統で他の説明を許さない伝統を形成した。ガレノス主義である。膨大なガレノスの著作群を読みこなすのは不可能であるため、抜粋集をつくったり、主題ごとに見解をまとめた書物が編まれたり、とりわけ重要な著作が精選されて、教育に用いられた。ガレノスは400年頃までに(ヒポクラテスとならんで)巨大な権威となっていたと思われる。これによりガレノス関係の書物以外が書き写されなくなり、多くの医学テキストが散逸した。ただしガレノスを中心に組まれた高度な医学のしたの段階には、魔術や占星術や顔相を利用した実践が生きていたことを忘れてはならない。
対して西方ではガレノス主義は根付かなかった。古代末期にいたっても北アフリカに代表されるように、医学が相対的に栄えていた地域もあった。またいくつかの重要な著述が生まれた。しかし衰退の痕跡も間違いなくみられる。カッシオドルス(ca. 490–590)が医学を学ぶ者が読むべきと指定した著述は、ガレノスのような著述家に帰されていながら、じっさいには著者が不明であるものがおおく、その内容は実践的な処方の提供にもっぱら重点をおいたものとなった。ガレノスの著作を埋めつくした議論(アーギュメント)はなりをひそめ、ガレノスからとられていたとしても、そこにある事実と定義だけがとられていることが多くなった。医学書の多くは処方箋になっていた。そこに情報を提供したのは多くの場合プリニウスであった。
このような状態にあった医学は、二つの前提のうえにあった。一つはキリスト教である。自然は驚異であり、そこから神とその目的を読みとるべきとされた。もう一つの前提は、古代の医学を支えていた社会構造が300年から1000年のあいだ崩壊していたことがある。ポリスが任命する医師はおらず、整備された教育の中心はなかった。国家による医療への介入は教会によるそれに置き換わり、(第一の前提にあったように)そこでは神学的な動機が強く働いた。このような状態でアーギュメントにもとづく洗練された理論が深められるわけはなかった。こうして西方の医学書は処方箋が中心となる。病気への対処も自然的な説明にもとづく医療行為と、純粋に自然的な領域からは離れた原因(悪魔など)を呼びだして、その前提のうえに対処するという行為がないまぜとなったものとなった。ただしこれを自然にもとづく合理的説明から、宗教的で非合理的な説明へというように説明するのは注意が必要である。むしろ古典期においてセネカやガレノスが体現していた自然主義的な説明が弱まった結果として、それ以前もそれ以降もつねに存在していた別の種類の説明がおもてにあらわれてきたのだと考えられる。11世紀半ば以降、新たに学識にもとづく医学が導入されたときには、再度この別の種類の説明は見えにくい場所に身をひそめることになるだろう。