理性主義の崩壊 ドッズ『ギリシャ人と非理性』第8章

ギリシァ人と非理性

ギリシァ人と非理性

 最終章です。紀元前3世紀までにギリシアの理性主義は頂点をむかえました。人間は神にへりくだるのではなく、むしろ理性により神のごとくなることができる。そこでは一切の情念から解放される。知識人にとって宗教の本質はもはや祭儀行為にはなくなります。肝要なのは神的なものの観想(たとえばストア派にとっては天の観想)であり、人間のうちなる神に類似した部分を高めることでした。ポリスの自治権の喪失にともない公共の宗教は衰退します。

 しかしそこから一転、理性主義の退行と非理性の復興がはじまります。占星術が流行し、動植物・宝石のうちに隠れた力を探し求めることが行われるようになります。プラトン主義は再び思弁的となり、ピタゴラス主義が復活します。世界は悪しき力に支配されており、そこから個人は救済されねばならない。哲学はこの救済を与える宗教的価値を担うようになります。こうして真理にそれ自体のために敬意を払うことがやめられます。救済にとって有用な知をもとめる風潮のうちにキリスト教が入りこみ勢力を拡大します。当時の風潮がこの新興宗教を育んだのであり、逆ではありません。

 なぜ理性の退行がかくも大規模にはじまったのか。著者の仮説は自由の重荷に人々が耐えきれなくなったというものでした。行為の責任をとるよりも、占星術により決定された運命を受けいれる。真理をもとめることより、個人が救われるための人生上の規則を求める。ついには予言者や聖典という絶対的に依存可能な権威が希求され、哲学的思惟においても批判精神が書物への尊敬にとってかわられる。このような責任の回避は神経症という代償をともないました。現世でも死後でも個人をねらう悪しき霊への恐怖が広くみられるようになりました。これほどに非理性への逆行は徹底していたのです。

 なるほど最初の合理主義者たちは世界における非理性を鋭く意識し、それについて豊かな思索を残しました。しかし彼らはそれらを理解し、制御する十分な手立てを獲得できませんでした。非理性を無視したヘレニズム時代は非理性から強烈な反撃をうけ、ついには理性主義の崩壊を招きました。現代もまた開かれた社会からの大規模な退行を経験しました。だがもし非理性を統御する手段を獲得しているならば、そこでは理性主義を貫くという古代世界がなしえなかった可能性が開かれていることになります。