批評と社会学的視線 木村「〈批評〉の誕生」

 ある文化圏に外来の術語が入りこみ、それが短期間のうちに広く使われるようになるという現象をどう理解すべきか。この問いに答えるときに有効な議論の型の一つをきれいにみせてくれるすぐれた論文です。

 「批評」という言葉は明治10年代に一度導入されたものの、広範に使用されることはなく、やがてすたれてしまいました。それが明治10年代の終わりごろに坪内逍遥が使いはじめるようになってから、一つのジャンルとして急速に定着します。「人生の批判」として出された『小説神髄』は、近代小説として批評的読解の対象となるべく書かれたテキストであり、実際に批評文を呼び起こしていきました。この後、欧米文明を確かな目で鑑定し、すぐれたものを日本に普及させ、その趣向を導く者としての批評家像が定着していきます。

 ではなぜ一度は定着しなかった批評という術語・実践が坪内以降広まったのか。これを理解するために呼びだす必要があるのが、明治10年代後半より盛んになっていた〈改良〉運動です。政治社会に焦点を絞っていた自由民権運動が退潮するにともない、この時期には政治の外部にあるより広大な生活社会の領域への関心が高まっていました。というかここにおいて政治の外部にあって改良が必要である領域としてはじめて「社会」なるものの輪郭が明瞭となりました。改良によってよりよきものとされる個々の(広い領域にわたる)対象・客体として社会が浮かびあがったというわけです。文明開化の新しい段階としての改良運動の隆盛です。

 坪内らが批評を唱えたときに、同時に批判していたのはこの改良運動でした。個々の改良されるべき事象の総体として客体としての社会があるのではない。むしろ個々の事象を規定する主体として社会があるのではないか。東京大学フェノロサから世態学(社会学)の講義を受けていた坪内らにとって、社会とはその内部に配置された人間のあり方を規定する空間として観念されていました。この社会の内部でいかにさまざまな人間が動くかを観察し、記述することが坪内のいう「人生の批判」(『小説神髄』)です。

 明治10年代の終わりごろには、改良運動によって引き出された「社会」が、社会学的な視線を内面化した人々によって組み換えられていました。この新しい社会像を描きだすメディアとして登場したがゆえに批評は急速に定着していったと考えられます。

 ある術語の導入を観察するにあたり、それが用いられるようになった時と場所を確認するだけでは不十分なこと。術語が受容された理由を、同時代のうちにあったいくつかの事情から説明する。そのときに旧来の運動とその組み換え、および組み換えを行った人間の個人的バックグラウンドを重ねあわせて説明とする。