デカルトにおける実体形相理論 Schmaltz, “Substantial Forms as Causes"

Matter and Form in Early Modern Science and Philosophy (History of Science and Medicine Library / Scientific and Learned Cultures and Their Institutions)

Matter and Form in Early Modern Science and Philosophy (History of Science and Medicine Library / Scientific and Learned Cultures and Their Institutions)

  • Tad M. Schmaltz, “Substantial Forms as Causes: From Suárez to Descartes,” in Matter and Form in Early Modern Science and Philosophy, ed. Gideon Manning (Leiden: Brill, 2012), 125–50.

 実体形相の概念は17世紀のスコラ学の批判者たちによって激しく攻撃されました。「ある物体がある運動変化を起こすのは、そのような運動変化を引き起こす実体形相がその物体に宿っているから」というような説明の仕方は、説明になっていないというのです。必要なのは実体形相とは何であるかを人間に理解できるカテゴリー(形とか運動)に還元することだ。このような批判を精力的に行なったのがデカルトでした。しかしそのデカルト哲学のうちにすら、実体形相概念に基づくスコラ学の因果理論の残滓が認められるとこの論文は主張します。

 神が自己原因であると主張するとき、デカルトは神の本質はその存在の形相因であると考えていました。この形相因は作用因ときわめて類似しているけれども、それでも厳密にいえば作用因ではないというのです。デカルトはスコラ学の形相因や目的因を排除し、作用因だけを認めたと考えられがちです。しかしここでは彼が形相因を認めていたことがわかります。加えてデカルトは三角形の本質、つまり延長されたものとしての三角形の形状が、(内角の和が180度であるというような)三角形に必然的にともなう性質にとっての形相因であると考えていました。このようにデカルトはスコラ学の実体形相理論が認めていたところの形相因を彼独自の仕方で承認していました。

 スコラ学とのもう一つのつながりは、デカルトの人間霊魂論にみられます。彼は人間霊魂は人間にとっての実体形相であると明言していました。しかしこの実体形相論は多くの場合、真摯な哲学的考察の産物とはみなされてきませんでした。スコラ学では、実体形相とはなによりも、質料と形相が一つの結合体を構成することを可能にするという役割をはたします。しかしデカルトの場合、精神と延長は根本的に異なるので、いくら人間に実体形相を認めたからといって、それがこれまでスコラ学で果してきたような実体の単一性を確保するという機能を果たすことはむつかしくなります。

 しかし実体形相としての人間霊魂は、作用因として重要な役割をはたしていました。デカルトの理論では、精神と物体は分離していると考えられがちです。しかし彼は人間精神が何かを意志したときに、そのとおりに物体である身体が動くということを説明せねばなりませんでした。そこで彼は霊魂は何かを意志したとき、身体、とりわけ松果体にはたらきかけ、そこから目指した動作を発現させるための運動が生じると考えました。このとき霊魂は具体的にどのような筋肉の運動が肉体で起こるべきか、そのような運動を起こすためにどのような作用を脳が行うべきかを知っているわけではありません。霊魂はあくまでも、ある動作を起こしたいと意志するだけです。この議論の組み立ては、実は彼が若い頃に指示していたというスコラ学的な重さの説明とパラレルになっています。そこでは石が落下するのは石が何らかの形で落下先である世界の中心を知っているからであるとされていました。これと同じように、人間霊魂も最終的な動作だけを意志すれば、あとは自動的に身体がその動作に適切な作動をしてくれる。どうやらデカルトは最終的な成果を意志すれば、その作用の結果として所期の動作が行われることこそが、霊魂が実体形相であることの意味だと考えていたようです。

 このように考えてくると、デカルトのうちには形相因論であったり、重さの理論から転用された実体形相としての人間霊魂論であったりといった形で、スコラ学の因果理論が色濃く影を落としていることがわかります。