- 作者: Robert Pasnau
- 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr
- 発売日: 2013/03/01
- メディア: ペーパーバック
- この商品を含むブログを見る
- Robert Pasnau, Metaphysical Themes 1274–1671 (Oxford: Clarendon Press, 2011), 588–.91
複数論は変化の説明に強みを発揮した。だがそれは実体の単一性の説明に困難をおぼえることになる。実体の単一性を犠牲にし、二元論を招きいれてしまうように思われるのだ。二元論といったときに、人間が物質的なものと非物質的なものの結合からなっているというテーゼを指すなら、これを否定する論者はほぼいない(ただしホッブズという強力な例外がある)。問題となる二元論は、人間が精神と体という二つの実体からなり、これらの実体がそれぞれ独立しており、それらの結合である人間は精神と体の単なる集合にすぎないというものだ。この二元論をスコラ学者たちはプラトンに帰した。プラトン的二元論は必ずしもキリスト教の教義に反するわけではないものの、それはウィーン公会議(1312)で異端的学説として禁じられた。また常識に照らしても、私たち人間は異質な部分の単なる寄せ集めではなく、より統一的なひとつのものであるように思われる。
スコラ学者のうちでプラトン的二元論を支持した者は確認されていない。だがこの二元論に陥りにくい立場と陥りやすい立場は存在した。単一論はそのリスクがもっとも低い。この立場からすると人間は形相と第一質料の結合体である。その第一質料は独立した存在とはみなし得ない。よって二元論からは遠い。一方複数論はより危険である。そこでは人間の体は人間の霊魂とは独立に存在できてしまうからだ。これこそまさに複数論の強みであったものの、それがまさにプラトン的二元論への接近を招いたことになる。もちろん複数論者たちは、それでも人間の霊魂は体の実体形相であり、それゆえ人間は単一の実体だと主張した。だがこの主張で何が説明されているかは不明瞭である。特にオッカムにおいて問題が顕著である。スコトゥスの場合、人間の霊魂は感覚や栄養摂取といった生命体の機能を発現させる。この意味で霊魂が体の実体形相だという主張の意味が通る。一方オッカムは人間は理性的霊魂と感覚的霊魂を有すると主張した。すると理性的霊魂は器官に依存しない高度の認識活動を司るだけとなり、体とのつながりが切れてしまう。それで理性的霊魂が体の実体形相として単一の実体を生みだしていると言えるのだろうか(スアレスはそのように批判した)。オレームもザバレラも、理性的霊魂の役割を知的活動に限定した。あたかもデカルトによる術語の変更を予見するがごとく、彼らにとって理性的霊魂は精神となっている。実際ザバレラは知性や理性的霊魂という言葉よりも精神という言葉を用いることを好んだ。
でははたしてオッカムのような立場にたつと理性的霊魂が実体形相としてひとつの実体を構成しているという言明は意味を失うのだろうか。これに答えを与えるのは難しい。そもそも形相とは何であるかということについて明確な答えがないからだ。何かを形相とし、何かを質料と指定するだけで自動的にそのあいだの一体性が確保されるかのように議論が進行してしまう。ここで気をつけねばならないのは、13世紀後半から17世紀後半にいたる400年のあいだ、この種の質料形相論をめぐる議論は、本質的にただの言葉のうえでの議論(JUST TALK)であったということだ。そこにおいて霊魂が体の形相であるという言明が意味できる範囲はあまりに広く、ただそういうだけではほとんど意味をなさなかった。たとえばダニエル・ゼンネルトは理性的霊魂は体の形相だとしながら、同時に理性的霊魂と体との関係は船頭と船との関係に等しく、霊魂は「補助的な形相」として体に結合しているのだと主張している。だが船頭と船はひとつの実体を構成しているだろうか?この種のあまりに恣意的な議論を避けるためには、霊魂と体の結合性についてより精密な議論が必要となる。