歴史研究者と理論的モジュールの提供 第7回歴史コミュニケーション研究会

 今日は第7回歴史コミュニケーション研究会に参加してきました。お題は「歴史学習とカードゲーム」+「高校世界史Aの授業をみんなで作ってみる」です。ここでは池尻良平さんがつくった歴史学習ゲーム「Chronoful」で遊び、参加者(池尻さん含む)で議論したことから考えたことを書き残しておこうと思います。

 池尻さんのChronofulは歴史学によって得られた知見を、現代におけるさまざまな決定に応用する能力の涵養を目指すものです(あるいはそのような能力が発揮されるとはどういうことであるのかを仮想的な実践を通して垣間見せることを目指す)。カードに「歴史的状況。状況においてとられた方策。その効果」が書かれており、それにならって現代世界においてある目的を達成する方策を考案するというのがゲームの骨子になります。遊んだ感触からすると、この流れのなかで一番神経を使うのは、具体的な歴史事例を抽象化して、現代社会の出来事を当てはめていけるような枠組みをカードから抜きだす点です。ベッカー先生が言う理論的モジュールですね(ハワード・S・ベッカー『ベッカー先生の論文教室』、慶応義塾大学出版会、2012年、207–215ページ)。カードの記述は製作者が抽出してほしいと思っているモジュールが透けて見える形で書かれています。しかしそれでも書かれているのはあくまで歴史的出来事なので、プレイヤーは知的操作を経て、そこからモジュールをくみとらないといけない。そこからそのモジュールをつかって現代社会についていかなる決定がくだしうるかを考察しなければならない。

 このようなモジュールの開発・収集・提供の部分で歴史研究者はこのゲームの発展(および歴史研究の成果の活用の促進)に寄与できると感じました。これはゲームのためのみならず、歴史研究者内部での理論の洗練や対話の促進のために必要なこととなります。領域が離れた専門家同士が互いの成果を活かしあうためには、(どの程度までかはともかく)抽象化を行い、別領域での適用にひらかれた形で知見を提示することが必要になるからです。研究者は歴史学の発展のためにも、その応用のためにも、モジュール化を意識しながら史料を読み、研究文献を吟味に、互いに議論することが求められます。

 同時に歴史研究者はモジュール化にともなう単純化の許容範囲について責任を持たねばなりません。事例からの抽象が史料からかいま見える過去のきめ細かさを大きく損なうことは、歴史研究者なら誰もが実感しているはずです。この後ろめたさを強く感じられるからこそ、どの程度の単純化がモジュールを抽出するときに許容されるかを具体的事例にそくして判断せねばなりません。あまりに事例を裏切る抽象化を行っているときには、事例とモジュールのセットを却下(ないしは修正)する必要があります。

 事例を抽象化しモジュールを取りだす実践を日々行いながら、その許容限界を鋭く意識していること。これが歴史研究者に求められているのだと思います。