哲学とキリスト教の類似性 テルトゥリアヌス『護教論』

  • テルトゥリアヌス『護教論(アポロゲティクス)』鈴木一郎訳、教文館、1987年、103–118ページ。

 テルトゥリアヌスの『護教論』から、キリスト教ギリシア哲学の関係が書かれた箇所を読みました。キリスト教を信じない者たちのなかには、その長所を理解しながらも、それは哲学の一種に過ぎないのではないかと疑う人々がいます。これに対してテルトゥリアヌスは言います。

そうして教義を比較しているからには、なぜ、われわれにも自由にとがめをうけずに教えを伝えることが許されないのであろうか。…その上、哲学者達はあなた方の神々を、おおっぴらに打ちこわし、また、その論文の中で民間の迷信を攻撃しているが、あなた方はそっちの方は評価しておられる。哲学者の多くは皇帝達に吠えたてている。しかも、あなた方は彼らを支持している。連中を猛獣に渡すように命じる代わりに、むしろ銅像や、褒美をやっておられる。(第46章、103–104ページ)

これに加えてキリスト教徒たちは節操、つつましさ、素直さといった面で哲学者たちよりも優れた行動をしめしているのに、どうしてキリスト者は迫害されなくてはならないのでしょう。

 しかも哲学は(いまでいう旧約)聖書に依拠しているとテルトゥリアヌスは議論をすすめます。「彼ら[哲学者]はわれわれの文献から[その思想を]借りているからこそ、われわれは彼らと対比されるのである」(第47章、107ページ)。より悪いことに彼らはそこにある教えを自分の意のままにつくりかえて歪曲しています。その歪曲行為は現在編集中の文書にも及んでいます。すなわち「この類の人々の中には、われわれが今、準備している新しい文書[新約聖書]を、自分たちの考えで、その哲学的見解にあわせて改竄している」(108ページ)。このように哲学者たちの教えは、聖書という実物にたいする影のようなものであるのだから、どうしてキリスト教徒が迫害され、哲学者たちが尊敬されるのか理解できないということになります。

 肉体の復活にしても、哲学者たちが輪廻転生を唱えれば尊敬されるのに、なぜかキリスト教徒が人間が生前の肉体に戻ってきて復活すると論じると軽蔑され、罰されます。しかしなぜ罰されるのでしょう?たとえ間違っていても罰せられるいわれはないのではないでしょうか?というよりむしろキリスト教の教えは社会的に有用なのではないでしょうか?テルトゥリアヌスは言います。

われわれを守る者が、いつわりだとか、身勝手な仮説だというならそれでもいい。しかし、それは必要なのである。馬鹿々々しいかもしれないが、役に立つのである。それ[最後の審判]を信ずる者たちは、この永遠の刑罰をおそれ、永遠の涼しさを望み、よりよい人間になろうと努めるのだ。それゆえに、真理だと思っていたほうがいいのに、それを嘘だといったり、馬鹿々々しいと考えたりするのはためになるまい。更に、ためになるものを批難するのは、どうあろうとも絶対にゆるさるべきではない。だから、役に立つものを批難すること自体、あなた方の方に偏見があるのである。たとえ、いつわりでも馬鹿馬鹿しいものであろうと、それは誰にも害にならない。なぜなら、それは他の多くの思想と類似点をもっているし、それらの思想に対しては、あなた方はなんの刑も科してはおらないからである。それらは空虚な口先だけのものであるのに、あなた方はまるで無害なもののように責めることも罰を科すこともしておられない。そうした場合、笑いによって罰すべきであって、刀や火やはりつけや猛獣に与えたりすることで罰すべきではないのだ。そうしたよくない残酷な仕打ちは、ただたんに無分別な大衆が喜んで小躍りするばかりでなく、あなた方の一部の人々は、そうしたよくないやり方で大衆の人気を得ようとして、そんなことをやって自己宣伝をしているのだ。(第49章、114ページ)