神への自然的欲求と境界線上の人間 根占「『プラトン神学』と霊魂不滅の伝統」

  • 根占献一「『プラトン神学』と霊魂不滅の伝統 特に「自然的欲求」をめぐって」根占、伊藤博明、伊藤和行、加藤守通『イタリア・ルネサンスの霊魂論 フィチーノ、ピコ、ポンポナッツィ、ブルーノ』新装版、三元社、2013年、18–59ページ。

 95年に三元社より出された好著『イタリア・ルネサンスの霊魂論』がこのたび装いも新たに世に送り出されることになりました。ルネサンスを代表する哲学者の議論をすぐれた解説と、ポイントをついた翻訳選で楽しむことができます。このようなすばらしい企画が正当に評価され、復刊されるのはじつにすばらしい。新しい装丁がこれまたとても美しいのです。ぜひ手にとってみてください。今なら新たに発足したJapanese Association for Renaissance Studiesから特典付きで買うことができます。

 そのなかからマルシリオ・フィチーノの霊魂不滅論を人間が有する自然的欲求という側面から検証した論考を読みました。フィチーノによれば人間は生来的に神へと向かう欲求を有しています。そのため人間はときに世界にある階層構造を正しく認識することで神にいたるまで認識を深めていくことを目指します。しかしときには世界に向かって出て行くのではなく、逆に自身のうちに帰って、そこに目を向けることにより、自らのうちに神性を見いだし、そこから神を享受することです。この神の認識と神の享受(あるいは神への愛)のうち、フィチーノ自身は愛を高く評価していました。「実際われわれは理解すること、楽しむことで彼ら[諸天使]を凌駕することができる」(53ページ)。「神に関してなら、神を愛していることを人に知られてもその人の機嫌を損じないかなど、心配するには及ばない」(50ページ)。しかし肉体を有する人間はこの世のものごとにたいする自然的欲求もまた同時に持っています。だから私たちは決して完全で安定した神の認識、あるいは神の愛を得ることはできません。そのような認識・愛はこの世では実現しえないものです。だからこそ、これが霊魂の不死性の一つの根拠となるわけです。この世にあるなにものも無駄ではない以上、神への人間の欲求も無駄ではないだろう。これがこの世で満たされない以上、この世の先のどこかで満たされなければならないというわけです。実際に復活の時に人間が見にまとうことになる肉体はもはや人間の神への欲求を妨げません。ここにおいて自然的欲求は満たされることになるのです。