ミュージアムがつくるルネサンス Findlen, "The Eighteenth-Century Invention of the Renaissance"

 博物館・美術館が歴史記述をつくるという観点から、イタリア・ルネサンスという主題の登場を論じる論考です。この主題がブルクハルトやミシュレの作品により、19世紀半ば以降脚光をあびるようになったことは広く知られています。しかし彼らがそのルネサンス観をイタリアの博物館・美術館をめぐることによって形成していたことは広く知られてはいません。この点を考慮に入れるならば、歴史記述におけるルネサンスという主題の発生には、そのような語りを可能にするような形でブルクハルトやミシュレの時代にイタリアの博物館・美術館展示がつくられていたことが寄与していたということになります。ではいつからそうなっていたのでしょう?フィレンツェウフィツィ美術館を例にとるなら、1770年代から90年代が大きな変貌の時期であったことがわかります。それ以前の美術館は初期近代以来の驚異の部屋の延長線上にあり、目を引く珍奇なものを前面に押し出して展示をしていました。64年に美術館を訪れたギボンは、美術館がその膨大なコレクションにもかかわらず、美術の進歩をわかるような形での展示を行っていないと不満をもらしています。彼のこの観点はヴァザーリ『列伝』(1759–60年に新しい版が出ていた)からとられていました。同じようにヴァザーリを片手に美術館の現状に不満を持つ人間たちが内部にもいました。その代表がGiuseppe Pelli BenciveniiとLuigi Lanziです。彼らはヴァザーリによる芸術の再生史という観点から、1570年代から80年代にかけて(Peter Leopoldが大公であった時期)美術館の展示を組みかえていきます。Bencivenniはヴァザーリに忠実に、芸術の再生はトスカーナにて起こり、そこをこそ展示の中心にするべきという立場でした。これにたいしてLanziはヴァザーリに学びながらも、より時代を広く後期中世からはじまり、地域的にもローマやヴェネツィアに目配りをした展示を志向しました。最終的にLanziが美術館長になることにより、ウフィツィは11世紀から16世紀にかけての北部と中部イタリアにおける芸術発展の系譜を展示するものとなりました。ヴァザーリの観点を拡張したこの展示に現われた美術史観が、美術史家から歴史家へと向かったブルクハルトのルネサンス観を形作ることとなります。啓蒙の申し子という点ではBencivenniのほうがLanziよりはるかに進歩的でした。むしろLanziはカトリックの信仰を強く持ち、それゆえキリスト教中世にも深い共感を抱いていました。だが歴史記述における「再生」の主題を強く後押ししたのは、むしろそのような人物であったのです。