ガリレオの異端誓絶 ファントリ『ガリレオ』#2

ガリレオ

ガリレオ

 1616年コペルニクス説が断罪されたあとのガリレオは、表立って太陽中心説を支持することは控えていました。もちろんそのあいだも活動を停止することはなく、彗星が含意するところをめぐってイエスズ会士と論争をし、同会のメンバーたちとの関係を順調に悪化させていました。

 転機が訪れたのは1623年のことです。この年、ガリレオとは旧知の仲であり、彼のことをいたく尊敬していた枢機卿マッフェオ・バルベリーニがウルバヌス八世として教皇位につきました。これにガリレオは力を得ます。この教皇の統治下であれば、ふたたびコペルニクス説のただしさを示す証拠をつめこんだ著作を発刊してもいいのではないか。24年に教皇と数回の謁見を重ねるなかでガリレオは、事態はそれほど楽観視はできず、ただちに16年に行われた『天球回転論』禁書目録登録が解除されることはないと悟ります。しかしそれでももう一度コペルニクス説を著作のなかでとりあげることができるのではないかと彼は思ったのでした。

 そこで誕生したのが『二大世界体系についての対話』(フィレンツェ、1632年)でした。この本ではコペルニクス説は純粋な数学的仮説としてのみ支持され、それをたしかに見せるための証拠が提示される、とガリレオは言いました。本当の世界の構造は言うまでもなく教会の教える地球中心説であると。しかし少しでも本書に目を通せば、この言明がポーズにすぎず、著者がじっさいにはコペルニクス説を世界のじっさいのあり方を正しく記述した学説とみなしていたことは明らかでした。しかもなお悪いことに、本書の末尾では教皇ウルバヌス八世の持論が、対話篇において頑迷な守旧派を体現する人物の口から発せられていました。いちおうこの持論は「まことに驚くべき天使のような教説」として、ガリレオの代弁者たる登場人物に讃えられているものの、その筆致からしても登場する場所からしても、教皇の意見がいちおうの弁明のために挿入されていることは明白でした。

 この出版にたいしてウルバヌス八世は激怒します。「お前らのガリレオもまた立ち入るべきではないところにまで立ち入ったのだ。この頃よく議論になる主題のうちで最も重大で最も危険なやつにちょっかいを出しおって」(397ページ)。ガリレオは検邪聖庁の調査対象となりました。ここで大いに問題視されたのが、1616年のときの顛末でした。この時ガリレオ枢機卿ベラルミーノ邸宅に呼び出され、そこで「太陽が世界の中心であって不動であり地球が動くという前記意見を完全に放棄し、口頭でも著作でも、どのような仕方でも、今後は抱かず教えず擁護しないようにと通告し命令された」のです。この命令が記された記録についてはややこしいことがいろいろあるものの、とにかくこれに照らすならば、『二大世界体系についての対話』でガリレオコペルニクス説を教えていることはあきらかですし、内容からはそれを擁護し、抱いていると判断されざるをえません。このような個人的な怒りと命令違反に加えて、教皇ガリレオの行いを「その意見によって当地の他の多くの人々の心を揺るがし、断罪された教説によってキリスト教世界にかくも広範な騒動を引き起こした」とみなしていました。当時苦境に立っていた教皇には、ガリレオは自分との信頼関係を裏切り、キリスト教世界を揺るがす学説を支持してみせた許しがたい人物とうつったのです。

 明白な命令違反と教皇からの敵意が重なってしまった以上、ガリレオの命運はなかば決まっていたようなものでした。1633年6月22日ガリレオは「太陽は世界の中心であって動かず地球は中心ではなく動くと考え信じたというきわめて強い異端の嫌疑があると判定」(450ページ)され、異端誓絶を余儀なくされました。(続く)