- 作者: アンニバレ・ファントリ,大谷啓治,須藤和夫
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2010/01/20
- メディア: 単行本
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世に名高いガリレオ裁判について知るに最良の書物です。ガリレオ・ガリレイ(1564–1642)は1590年ごろにはすでにコペルニクス『天球回転論』を読み、地動説の正しさを直観的に確信したものと思われます。しかしその証拠はまだありませんでした。彼がまず着目したのは潮汐現象でした。これがコペルニクスが地球に与えた二重の回転運動から説明できるとみなしたのです。この構想は『世界系対話』のうちで実現されることになります。次に彼が目をつけたのは1604年の新星でした。これは月の天球より上にあったため、アリストテレスが想定する天の不変性を掘り崩す根拠にはなりました。しかしこの現象からは地球が太陽のまわりを回転していることの根拠はみいだせませんでした。
彼がコペルニクス説を支持する決定的な証拠を見出したと確信したのは望遠鏡による観測からでした。まず月の表面には凹凸があり、これは月も地球と同じ星であることを示しており、それゆえアリストテレスの想定する天の不変性は否定されます。続いて木星の周りの衛星の発見は、あらゆる天体が地球の周りを回っているという学説を崩すものでした。また地球が太陽をまわっているとしたときに、それでもやはり月は地球の周りをまわることが、木星の周りを衛星がまわっていることと同種の現象として説明できるようになります。最後に金星の満ち欠けの観測はこの惑星が太陽の周りを回転していることを示していました。「お分かりいただけることでしょう、金星が太陽のまわりを回ること(水星についても同じであることは疑う余地がありません)も、太陽が疑いなくすべての惑星の大回転の中心であることも、いまやここに明らかであります」(121ページ)。
ガリレオはこの成果をひっさげてローマにおもむき、有力者に望遠鏡をじっさいに見せることで自説を広めました。この時点ではガリレオに対して表立って教会側から警戒が表明されることはなく、むしろ彼は教皇と謁見するなどして大きな歓待を受けていました。しかしすでにガリレオの学説を神学的に問題視する書物が現れていましたし、彼のローマでの活動は検邪聖庁による水面下での調査を引き起こしていました。
問題は1614年ごろより表面化します。トスカーナ大公の面前で自分の学説が聖書解釈として正しいかという視点から議論されたことを聞いたガリレオは、事態を重く見て書簡を著します。そこで彼は真理は一つであり、聖書は決して人を欺くことはないのだから、自然現象について疑いようもない証明により正しいとされたことと、聖書の記述が矛盾するようにみえる場合は、聖書の解釈をむしろ自然から得られた証明に合わせて変更するよう努めねばならないと論じました。これはしかし俗人にもかかわらず聖職者の領分である聖書解釈に踏みこむとは許しがたいという反応をまねいてしまいます。しかも聖書解釈についてのガリレオの考えを支持する小冊子をカルメル会の神学者が出版したことにより、検邪聖庁は憂慮を深めます。
そこでガリレオは15年12月よりローマに出向き、ふたたび自己弁護の活動を開始します。とはいえ「反対者の諸論拠に答える前に彼自身がそれを一見すこぶる強力な新しい議論で強化してみせ、その上でそれを粉砕してしまうのです。こうして、敵どもをいっそう物笑いにしてしまうというわけです」(215ページ;ある人物によるガリレオの活動の報告)というような具合で、状況は日増しに緊迫していきました。
16年の2月24日に太陽が世界の中心であるという命題は「本質的に異端」であるとされ、地球は運動するという命題は「哲学的非難に値」し、「信仰においては誤謬である」とされました(218ページ)。ガリレオ本人はベラルミーノ枢機卿の邸宅に招かれ、コペルニクス説を破棄するよう戒告され、さらに総主任から「太陽が世界の中心であって不動であり地球が動くという前記意見を完全に放棄し、口頭でも著作でも、どのような仕方でも、今後は抱かず教えず擁護しないようにと通告し命令された」。「この通告に同ガリレイは従い、服従することを約束した」(221ページ)。こうしていわゆる第一次ガリレオ裁判が終わるわけです。この時点ではガリレオは沈黙するように私的な形で支持を受けただけであり、また彼のカトリック信仰の誠実さも疑われていませんでした。彼はその後も教皇と長時間歓談し、フィレンツェに戻っています。いぜんガリレオ・ガリレイは意気軒昂でした。
ここまでのガリレオの振る舞いを性急であったと批判できるかもしれません。彼がローマにわざわざおもむき耳目を集めたことが教会側の反応を引き起こした。彼がわざわざ聖書釈義の問題に踏みこんだことが、教会のさらなる警戒を招いたというわけです。しかし後半から言うなら、聖書釈義の問題はむしろ、彼の反対者が自然哲学上の議論で彼を論駁できないのを見てとってから、彼よりも先に足を踏み入れた領域でした。ガリレオはそれに応じたにすぎません(そしてそこから自然に関する知識と神学とを分け、前者の自由を確保しようとする見事な宣言が生まれた)。ガリレオがローマに赴いたのも、自説をなんとしても認めさせようというよりも、むしろまず最低限ローマが天文学の問題についてあまりに性急な判断を下さないようにするためでした。これは当時アリストテレス=プトレマイオスの体系がこうむっていた損傷を考慮すれば理にかなった判断です。教会はしかしこれらの事情は一切考慮せず、アリストテレス=プトレマイオスの体系と聖書の字義解釈に反すると思われたコペルニクス=ガリレオ説を権威的に沈黙させる道を選びました。この誤ちはやがてより強力なかたちで反復されることになります(続く)。