中世思想における「市民宗教」 Nederman, "Civil Religion"

 宗教の公共空間からの追放を望ましいとするにせよ、ある種の「市民宗教」が社会の統一性の維持に必要であるとするにせよ、現代の政治学は中世のキリスト教信仰を、正統外の信仰形態を許さない排他的なものであったとみなし、それに否定的な評価を与えている。しかし幾人かの中世思想家は、キリスト教以外の(彼らからすれば)誤った宗教であっても社会を成立させ安定させる役割を果たしていることを認めていた。ソーズベリのジョンは政治組織を人体と類比的にとらえ、肉体にはそれに生命を与える霊魂が必要であるように、共同体にはそれに秩序を付与する宗教が必要であると論じた。この宗教のうちにはキリスト教以外の信仰が含まれている。パドヴァのマルシリウスは宗教儀式、とりわけ超自然的に与えられる罰への恐れは、人間に共同生活の基礎となる倫理的な性質を付与するために不可欠であると論じた。楽園追放以降の人間は堕落しているため、このような宗教的統制が必要となるのだ。ラス・カサスは新大陸の人間たちが本性的に奴隷であるわけではなく、彼らもまたヨーロッパの人びととまったく同じ人間であると論じた。人類の平等性の根拠の一つは、普遍的に見られる神的なものへの崇拝である。しかもこの崇拝は社会を統合し安定させる機能を有している。その機能を果たす以上、あらゆる崇拝は妥当性をもち、それゆえたとえ人身御供のようなことが行われていたとしても、その崇拝を根絶してよいことにはならない。よってヨーロッパ人は新大陸の人びとのあいだにいかに(ヨーロッパ人から見て)野蛮な宗教上の風習が見られたとしても、それを根拠に彼らに戦争を仕掛けることは許されない。このようにラス・カサスは論じた。最後に著者はこのような宗教一般が果たしうる役割を論じた中世思想を、現代の政治哲学や政治思想史が考慮にいれることを求めている。