知の移動における循環モデル Raj, "Circulation and the Global History of Science"

 循環(circulation)という比喩を科学史の記述に導入することで、現状の記述の限界をのりこえようとする論考である。近年の科学史研究は、科学に本質主義的規定を与えることを避け、むしろ特定の時間と地域でいかに科学的知識(とみなされるようになる種類の知識)が生みだされるかを調べている。こうして知識が時間的・地理的に限定された出自をもつものと理解されると、そのような知識が別の地域に(もしかすると別の時代において)移動するとはいかなる事態かという探究がはじまることになった。ここでも歴史家は西洋で生まれた知識が他地域に拡散する(diffuse)というモデルの使用を避け、知識の出発点と到着点のあいだでさまざまな調整、交渉が行われことによって知識が移動するさまをえがきだしてきた。

 しかしこのような先端的な科学史記述ですら、西洋が中心で他地域が周縁であるという二分法を前提としている。じっさい研究はヨーロッパとアメリカに集中し、その他の地域での近代においていかに知識が生みだされてきたかという問題は、科学史家ではなく人類学者や地域研究者に任されている。

 中心・周縁という単純な二分法を避けながら、幅広い地域間での知識の移動を扱うにはどうすればよいか。著者によれば、循環の比喩を念頭において歴史を記述することが有効だという。循環というメタファーを選択するのは、それがある地点からある地点への移動を指ししめすだけでなく、元の地点への立ち返りと、それによる最初の地点の変容をも含意しているからだ。この相互作用を前提としたモデルを採用することで、中心・周縁という非対称的な関係性を脱却することができる。もうひとつのポイントは、この循環を単なる完成された知識の移動ととらえるのではなく、むしろ循環の過程そのもののうちで知識が新たに生まれる(練りなおされる)と考えることにある。こうすることで情報を集め、それを処理し、そうしてえられた知識を広めるという、分断された知識生産のモデルではとらえられないような、人、モノ、技術の性質が循環の過程のなかで常に変容しながら、新たな知識を産みだしていくという事象をとらえることができるという。以上のようなモデルの実践例として、著者は自分の研究(インドとフランスのあいだでの薬草にかんする知識の形成過程の研究)をあげている。

 著者の主張を繰りかえすなら、一地域の研究にとどまらない広域的な科学史研究を中心・周縁という二分法を前提とせずにやろうとするなら、循環モデルにより固定された中心を消去してしまうのがよいということになる。知識というのはグルグルとまわっており、そのなかで諸アクターの性質やそれら相互の関係性も変化する。それにともないまわっている当の知識自体にも変化が生じる。

 いくつか疑問がある。まず循環(circulation)という比喩が、はたして著者が見たい歴史の側面を抽出するにふさわしいモデルを提供してくれるかどうか。なにかが循環する(circulate)というと、そのまわっているもの自体は変化しないように思える。その意味で本当に知識の循環モデルが、著者が強調してやまないtransformativeなモデルであるかどうか疑わしい。むしろ移動する過程で自らも変容しながら、移動にかかわるアクターに深刻な影響を及ぼすものとしては、ウィルスのほうがふさわしいように思える。

 比喩の使い方の適切さへの疑義から生じるもう一つの疑問は、このモデルの導入により著者がなにを目指しているのかがじつのところよくわからないというものだ。たとえば著者も大きく影響されていると思われるJim Secordの綱領的論考であれば、自然に関する知識の歴史をコミュニケーション行為のパターンの総体として、統一的に理解できるはずだという野心的提言があった。それにたいしてこの論考では、循環モデルは旧来の二分法の克服策としておおくの場合しめされている。より積極的な価値としてあげられるのは、よりcomplexでintertwinedなinteractionやnegotiationの諸相を描きだせるはずだというものであり、これは英語圏で好まれるバズワードを並べたてただけに見え、実質を欠く。ここでうえで述べた比喩の使い方の不適切さを考慮すれば、どうも著者は詳細なケーススタディの意義を深く考えることなく拡張しようとしてしまったという印象がえられる。

 最後の問題は次のようなものだ。本当に中心・周縁モデルはのりこえられなくてはならないのだろうか。むしろ中心と周縁が時代によって変化するさまを描きだそうとしたクリスティアンセンのような手つきに私はひかれる。