形相の単一論、複数論再説 Pasnau, Metaphysical Themes, 25.1

Metaphysical Themes 1274-1671

Metaphysical Themes 1274-1671

  • Robert Pasnau, Metaphysical Themes 1274–1671 (Oxford: Clarendon Press, 2011), 574–78.

 Pasnauの大著から第25章 "Unity and Dualism" を一節ずつまとめていくことにする。

 中世から初期近代に関してきわめて激しい議論の対象となった問題がある。「ひとつの実体はいくつの実体形相をもつのか」というものだ。大別して二つの立場があった。一つはトマス・アクィナスをその代表的な提唱者とする単一論(the unitarian position)である。これはひとつの、そしてひとつだけの実体形相が直接第一質料に宿ることで、実体が構成されるという説だ。この見解の欠点は実体の存続、とりわけ実体の部分的な存続の説明が困難な点にある。動物が死ぬと動物の実体形相は抜ける。すると動物の体も消滅することになる。だが明らかに動物の体は動物の死後もある。これにたいして複数論(the pluralist position)は、ひとつの実体のうちに複数の実体形相を認める。この立場に立って、動物のうちに動物の実体形相(霊魂)のほかに、動物の体の形相があるとみとめれば、上述の困難は解消される。しかし、と単一論者は反対するだろう。もし複数の形相が実体のうちにあるなら、実体の単一性(unity, unitas)はどう説明されるのか。この困難は実体形相を認めずに実体のあり方を説明しようとした17世紀の論者たちが直面する問題を予見するものであった。

 単一論はアクィナス以前にも存在していたかもしれない。彼以前にも人間が持つ栄養摂取、感覚、理性の能力をひとつの霊魂から来るとみるか、三つの霊魂から来るとみるかの論争は存在した。たとえばアルベルトゥス・マグヌスはひとつの霊魂説を強く支持していた。さらに以前にはアヴェロエスが「単一の基体がひとつ以上の形相をもつのは不可能である」と述べていた。とはいえこの文言はアヴェロエスによる単一説の支持を示すものとして単一論者によって引き合いにだされることになったものの、複数論者もやはりアヴェロエスのうちに自説の根拠を見いだすことになる。やはり明確なかたちで単一論を打ちだしたのはアクィナスと考えれなばならない(『神学大全』1a 76.4c)。

 単一論はオックスフォード大学にて1277年、そして1284年に断罪されることになる。主導したのはカンタベリー大司教のRobert KilwardbyとJohn Pechamであった。1285年ごろにRichard Knapwellが単一論を擁護する討論を行ったさいには、Pechamは彼を破門した。アクィナスの死後50年ほどの主導的な知識人(ガンのヘンリクス、スコトゥス、オッカム)はアクィナスの学説に反対することになる。だがアクィナスが1323年に聖列された以後は、スアレスの言葉を借りれば「すべてのトミスト」が単一説の支持にまわった。それだけでなく、Gregory of Rimini、ビュリダン、Marsilius of Inghen、Peter of Aillyといった論者、さらにはスアレスや他のイエズス会士たちが単一論をとった。複数説もまた多くの支持者を得た。John of Jandun、オレーム、Paul of Venice、ニフォ、ザバレラの名を挙げることができる(どちらの説が有力であったかを決定するのは現時点では不可能であるものの、著者のPasnauは二説は拮抗していたという印象を得たと記している)。

 アクィナスの単一説は激しい攻撃にさらされ続けたものの、複数論者ですらはもしそれが採用可能であれば、単一説の方が望ましいと考えていた。ガンのヘンリクスが単一説をしりぞけたとき、彼はそれを人間の場合に限定し、しかも人間に認められる複数の形相とは理性的霊魂と体の形相の二つだけだとした。他の実体には形相はひとつしかない。スコトゥスも複数の形相は生き物のうちにだけ、しかも二つだけ認められるとした(彼は体の形相をforma corporeitatisと呼んだ)。オッカムは人間のうちに三つの形相を認めた。理性的霊魂、感覚的霊魂、そして体の形相である。彼らはみな非生物のうちにはひとつしか形相がないと考えた。ここからアクィナスが議論のあり方を根底的に変化させたことがみてとれる。彼が攻撃した複数説とは、実体が持つ様々な性質を発現させる原因としてその都度形相を措定するものであった。このような実体中の形相数を際限なく増やす学説は彼以降なりを潜める。問題は特定の事例(人間や生物)において、形相はひとつなのか、ふたつなのか、みっつなのかという点にシフトした。

 だがたとえこれが議論の大まかな推移であるとしても、より詳細に検討するならば状況ははるかに複雑である。たとえばザバレラは「もしふたつの形相が同時にあるのが理性に反していないならば、みっつ、よっつ、あるいは百の形相が同じ実体のうちに同時にあることも理性に反しはしないだろう」と論じた。