アクィナスにおける可能態としての人間 Silva, "Potentially Human?"

 アクィナスの発生論に認められる難点を解消しようとする論文である。アクィナスにとって実体のうちに実体形相はひとつしか存在しない。そうしなければ事物の単一性が説明できない。よって実体のうちでは実体形相が直接第一質料と結合する[詳しくは関連記事を参照]。この見解を発生論に適用しよう。アリストテレスが論じるように、発生は段階をへてすすむ過程である。最初は植物の段階、次に動物の段階、最後に人間の段階を向かえ終了する。これとアクィナスの前提を組みあわせると、発生のもろもろの段階で、その成長段階に応じた実体形相が第一質料と結合していることになる。まず栄養摂取霊魂が第一質料と結合している段階がある。次に感覚霊魂が質料と結合する段階がくる。このとき、さきにあった栄養摂取霊魂は消滅する。なぜならひとつの実体はひとつしか形相をもたないからである。つづいて感覚霊魂が消滅して理性的霊魂が第一質料と結合する。こうして人間が発生する。

 この理論にはすくなくともふたつ難点がある。まず発生の過程で霊魂があらわれては消滅していくため、発生の過程での事物の同一性が確保できないのではないかという問題がある。これにたいして著者は、たしかに同一性の説明は、形相(霊魂)の入れかわりの側面に力点をおくとむつかしいと認める。

 しかしアクィナスの議論には、発生の過程であらわれる中間的な形相(先の場合でいうと栄養摂取霊魂と感覚霊魂)はそれ自体としては完全な形相ではなく、むしろのちにくる最終目的物(この場合は理性的霊魂)にいたるための中間的な形相であるとする箇所がある。この点を強調するなら、発生の過程はひとつの目的物にむかっていくつもの中間的形相があらわれては消えていく過程となる。この過程はひとつの目的に導かれた一貫したものである。よってその過程のさなかでの事物の同一性も確保される。

 だがここでもうひとつの困難があらわれる。事物の同一性が最終生成物へいたる過程から説明されるということは、事物が当初から最終目的物の可能態であるということを意味する。しかしこれが人間の場合は成りたたない。なぜなら理性的霊魂は神が直接創造するからである。よってそれは発生過程の当初は事物のうちに存在しない。なので当初の事物は理性的霊魂をそなえた人間の可能態ではない。とすると現実態としての理性的霊魂を目指す発生の過程はいかに生じるのか。

 アクィナスはこの難点を、当初の発生物は厳密な意味では可能態としての人間ではないが、弱い意味では可能態としての人間といえるとして回避する。人間の発生のときには、父親から精液をつうじて与えられた形成力が質料を適切に配置し、人間霊魂が宿ることのできる身体を形成する。そうしてできた身体に神が創造した理性的霊魂がいれられる。ここからわかるように発生物はたしかに可能的に理性的霊魂をそなえた人間ではない。しかしそれは当初から、可能的に理性的霊魂を受けいれることのできる状態にある身体をそなえた事物ではある。この状態を目的として発生の過程は展開する。こうしてやはり目的論の観点から、発生プロセスの一貫性が説明され、そこから発生物の同一性が保証される。