奇跡をめぐるガリレオとスピノザの対立 Redondi, "Spinoza, Critic of Galileo"

 旧約聖書ヨシュア記」に次のような記述がある(10:12–13)。

主がアモリ人をイスラエルの人々に渡された日、ヨシュアイスラエルの人々の見ている前で主をたたえて言った。
「日よ とどまれ ギブオンの上に
月よ とどまれ アヤロンの谷に」
日は とどまり
月は 動きをやめた
民が 敵を打ち破るまで。(新共同訳)

 この箇所は天動説の根拠として引き合いに出されていた。そこで地動説を支持する者たちは、自らの奉じる学説と聖書の記述とのあいだに矛盾を生じさせないよう腐心することになる。彼らによれば、聖書の目的は自然に関する真理を教えることではなく、民を教え信仰へと導くことにある。「ヨシュア記」の記述もそのような目的に沿ったものだ。よってそれを自然についての正確な記述とみなすべきでない。

 たいしてガリレオは聖書を正しく解釈することで、自然についての真理が引き出せると強く主張した。なるほどたしかに聖書の目的は教え導くことであり、その記述はそれを聞き、読む者の理解度に合わせられている。だがだからといって聖書に自然についての真理を求めてはならないわけではない。むしろ自然という書物を数学を通じて読んだことによって確証された真理は、必ずや聖書を正しく解釈することからも引き出せると考えねばならない。この立場からガリレオは、「ヨシュア記」の記述は天動説ではなく、むしろ地動説によってよりよく理解されると論じた。

 スピノザはこのようなガリレオの立場を批判した。ヨシュアは戦士である。天文学者ではない。その彼が地動説を唱えていたと考えるのは馬鹿げている。昼の時間が伸びることを願って「日よ とどまれ」といったとき、ヨシュアは端的に無知であった。日が伸びた原因は自然のうちに求められなければならない。また自然のうちに原因が見いだせないような奇跡の記述が聖書にあれば、それは誤りである。聖書はまさに教え導く書物であって、真理とは無関係である。宗教と哲学は切り離されねばならない。

 このガリレオスピノザの対立の根底には奇跡をめぐる彼らの見解の相違があった。スピノザにいわせれば自然法則を破る奇跡などない。奇跡とされる事象には通常の自然現象としての説明が与えられねばならず、できないならその事象の記述は偽である。たいしてガリレオは奇跡を認める。「ヨシュア記」に記されている出来事はもちろん、そもそも私たちが目にしている通常の自然のあり方自体が神の奇跡の産物である。「自然と神がなしとげることはすべて奇跡的なものであるように思われます」。この業の正確な記述として自然という書物と聖書がある。両者の目的とそれを構成する言語こそ異なれ、読みとられるべき内容は同一の奇跡でなくてはならない。であればこそ、自然を数学的に読みとったガリレオ自身の成果は、必然的に聖書の支持も得ることとなり、その確かさはいよいよ疑いえないものとなるというわけである。