パンとぶどう酒のうちの付帯性と実体 Gellera, "Calvinist Metaphysics and the Eucharist"

 宗教改革のなかで宗派間の激しい論争の的となった教義に聖餐がある。カトリックによれば、パンとぶどう酒はキリストの身体と血に実体変化する。ルター派によれば、パンとぶどう酒は、パンとぶどう酒であり続けながらも、そこにキリストの身体と血が場所的に存在するようになる。カルヴァン派によればパンとぶどう酒にはキリストの身体と血は象徴的な意味でしか存在しない。この対立を哲学的な術語に変換すると次のようになる。カトリックルター派にとって、パンとぶどう酒のうちにはたしかにキリストの身体と血が存在する。これはパンとぶどう酒がその付帯的な性質(簡単にいえばパンとぶどう酒という外見)を保持しながら、その実体においてはキリストの身体となっていることを意味する。たいしてカルヴァン派にとってみれば、パンとぶどう酒はあくまでその付帯性においても実体においてもパンとぶどう酒のままである。ここから彼らは、カトリックルター派の唱える実体が変化しながらも、付帯性は残存するという教義を攻撃した。カルヴァン派神学者によれば、付帯性は本質的に実体に内在していなければならない。実体からの切り離しは不可能である。この不可能性はアリストテレスから裏付けられる。このような主張はスコットランドにおいても、大陸においても共通してみられた。神学的動機が、異なる地域間で共通の哲学教義を生み出していたのであった。また著者は、延長のような付帯性を実体から切り離し不可能とする説は、デカルトの延長即物質の学説に近づいていると主張する。もちろん延長と実体を不可分としながらもそれらを区別するカルヴァン派と、延長をそのまま質料とするデカルトとのあいだには大きな違いもあったのであった。

 基本的にはライエンホルストとリュティーの論文(関連記事参照)がしめした見通しがスコットランド神学者の検証からも成り立つとした論文である。カルヴァン派の聖餐理解をまるでツヴィングリのそれのように論じてしまっているという難点を抱えているように思える。

図像出典

Wellcome Imagesより。