- Michael Edwards, "The Fate of Commentary in the Philosophy of the Schools, c. 1550–1640," Intellectual History Review 22 (2012): 519–36.
学問活動の内実というよりは、むしろそれが盛られていた器である形式に着目した論考である。哲学を行う上でのある重要な形式が初期近代に捨て去られたとしばしば主張される。放棄されたのは中世以来の注釈(commentary)だ。新科学の提唱者たちはこぞって注釈に注釈を重ねていく複雑怪奇なスコラ学の形態を批判した。代わりに台頭したのが知るべき内容を主題ごとに整理して提示する教科書(textbook)の形式である。より簡潔で明快で体系的な記述を心がける教科書形式は、ペトルス・ラムスの教育改革の理念をとりこみながら、プロテスタント圏を中心に伸長していった。こうして最終的に注釈形式が衰退にいたるのは1630年頃であるとされる。
これにたいして著者はたしかに注釈から教科書へという大きな流れがあったことは否定しがたいものの、それは前者が後者に単純に取って代わられたというものではないと指摘する。16世紀後半に表された代表的教科書(ヨハンネス・マギルス[左図]のもの)をみるならば、そこには教科書の本文の記述への注釈という形で、語句の説明や過去の様々な論者の立論の紹介・批判が行われていることが分かる。またこの時期にはアリストテレスやペトルス・ロンバルドゥスといったより過去の権威あるテキストではなく、たとえばフィリップ・メランヒトンの『霊魂論』(1540年、第二版は1552年)に注釈を施すことで、大学での教育で使いやすい教科書を生みだすことが行われた。注解は中世でしばしばみられたような独立した作品としての自律性は失いながらも、新たな教科書形式のうちに取りこまれたのである。
注釈形式の採用はデカルトにすらみられた。1640年にデカルトはエウスタキウスの総覧的な哲学書のテキストに注釈を施すことで自らの哲学を提示する構想を抱いていた。メランヒトンのテキストを注解することで体系書を著そうとした著者たちと同種の企てであったといえる。デカルトですら、自らの見解を体系的に提示する教科書(最終的に『哲学原理』となった)を、伝統的な注釈形式とのハイブリッドによってつくろうという意図があったのである。
注釈は明確性・簡潔性・体系性を重んじる新たな形式上の要請の前に単に消失したのではなかった。その形式は時代の要請に適合する形で変形されられたうえで新たな形式へと編入されたのであった。
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