生命を保つにはまともすぎる者 プラトン『ソクラテスの弁明』

ソクラテスの弁明 叢書ムーセイオン

ソクラテスの弁明 叢書ムーセイオン

 Kindle版で『ソクラテスの弁明』の邦訳がでていた。訳者の藤田氏はプラトン哲学の専門家である。2012年に「プラトンのディアレクティケー その成立事情に関する一考察」という博士論文により、京都大学にて学位を取得している。ciniiで検索すると他にもプラトンについての論文を幾篇も公刊されている。アマゾンのカスタマーレビューでの評価も高い。信頼できそうだ。というか150円じゃないか。なにを迷っているんだ私は…。ということで買った。

 読みはじめた。気がついたら読み終わっていた。それだけ訳文は日本語として読みやすいものにしあがっている。もちろんつまる場所がないわけではない。ただそれは元のプラトンの論述からしてこみいっているところなのだと思う。『弁明』が容易ではないというのは、専門家のあいだではよく知られている。ギリシア語本文と照らし合わせての評価は、専門家の判断を仰ぐしかないものの、私は日本語の質にしろ、議論の流れの追いやすさにしろ、この訳に不満はなかった。

 この作品はソクラテスのいわゆる「不知の知」で有名である。ソクラテスだけが善や美について自分が知らないということを知っているというわけだ。ここだけとりだすとまるでソクラテスは分を知った賢者のようだ。そういう側面がないではない。だがこの弁論の本体はむしろその先にある。不知の知から出発して、社会(ポリス)と正義の両立不能性という問題が指摘されるのだ。

 ソクラテスはなにをしていたのか。彼は人々を吟味して、その人々がほんとうのところ善や美について知らないということをあきらかにしていた。それにより彼はアテナイの市民から憎まれるようになった。だがいかなる不正も行っていない。現在彼を法廷に引きだすことになった告訴状にも根拠はない。

 ということは、とソクラテスは言う。もし自分を死刑にすれば、そのとき損害をこうむるのは自分ではない。そのときアテナイ市民が害悪をなすのは、ほかならぬアテナイ市民自身に対してである。なぜなら人を不正な方法で死刑にしようとすること(ソクラテスは不正を犯していない)は、きわめて大きな害悪だからだ。

ですから、アテナイの皆さん、私がいま自分のために弁明しているという認識は的外れなのであって、私は皆さんのために弁明しているのです。私に有罪票を投じることで、神が皆さんに授けた贈り物[=ソクラテス]に対して皆さんが過ちを犯してしまわぬようにと弁明を行っているのです。

ソクラテスの弁明とは、ソクラテスによるアテナイ市民のための弁明である。

 同時にソクラテスは正義のために不正をただす営みがどこに行きつくかをよく知っている。「正当な根拠にもとづいて反対したり、多くの不正や無法が国内で行なわれるのをどこまでも阻止したりしながらそれでも生き延びられる人など、人間の中には誰ひとりいないのです」。だからソクラテスはポリスの役職についたりしなかった。「そういった事柄に足を踏み入れて生命を保つには、自分は本当にまともすぎる」と考えたからである。

 結局ソクラテスはポリスのうちで生命を保つにはまともすぎた。弁論の最終部近くにて、ソクラテスは自分に有罪票をいれた人々に次のように言う。

殺人によって「まっとうに生きていない」と非難されることを防げると、こう皆さんがお考えになっているとすれば、その考えは間違っています。

 こうして生じた哲学とポリスとのあいだの亀裂はその後の哲学の歴史に長い影を落とすことになるだろう。あるいはそれは今にまで伸びているかもしれない。