錬金術の伝統 ブロック『化学の歴史』第1章

化学の歴史〈1〉 (科学史ライブラリー)

化学の歴史〈1〉 (科学史ライブラリー)

  • W・H・ブロック『化学の歴史I』大野誠梅田淳、菊池好行訳、朝倉書店、2003年、1–34ページ。

 化学史の標準的通史から、錬金術の伝統をあつかう第1章を読む。記述が駆け足すぎてよく理解できない部分もあると思うので、より詳しく知りたい人はプリンチーペ『錬金術の秘密』(勁草書房より近刊予定)に当たるとよい。

 錬金術師が目指したことを狭くとらえる傾向が私たちにはある。錬金術は卑金属から貴金属をつくりだす。錬金術はそれを実践する者の精神の完成をもたらす。なるほどこれらの目標は錬金術と密接に結びついていた。だが同時に錬金術は金属の染色や変色の手順を処方してもいた(ライデン・パピルスストックホルムパピルスにしるされている)。また錬金術は医学とつよく関連づけられていた。この関連がとりわけ強固であったのが中国錬金術である。紀元前4世紀には盛んとなっていた中国錬金術は、道教の教えにもとづいて身体のうちの陽と陰のバランスを調整し、不老不死を目指した。この調整を可能とする物質の探究が化学反応への探究をうながした(調薬のなかで火薬が見いだされたという見解もある)。

 ギリシア語が用いられていた地域では、錬金術は次の三つの潮流が重なった地点で発展した。経験に根ざした実践的営み、思弁的な物質理論、そして神秘主義である。ヘレニズム時代のエジプトが発展の中心地であった。この伝統のうちで賢者の石や不老不死の薬の観念が最初に登場するのは、アラビア世界においてである。この言語圏で大きな影響力をもった文書としてジャービルに帰される文書群と、ラーゼスの著作がある。ジャービル文書は金属の組成を硫黄-水銀の混合とみなす理論を唱えた点で重要である。この理論と、アリストテレスの『気象論』からとられた粒子論的な物質論が、ジャービル(ゲベル)の名を冠した『完全[金属貴化]大全』の著作によってラテン世界に広まった。ラーゼスはきわめて実践的な性格をもつ『秘密の秘密』を編集した。

 ケミストリーの語源であるキミアという言葉の出どころはわかっていない。ラテン世界では長きにわたって、アラビア語を音写したアルキミアという語が用いられていた。ここからアルが脱落しキミア(化学)という言葉が用いられるようになった原因としては、パラケルススが自らの医学的錬金術を「キミア」、または「イアトロキミア」と呼ぶようになったことがある。ゲオルグアグリコラも、アラビア語の影響をのぞいて純粋な古典語の使用を回復させるため、錬金術を指すためにキミアという語を選択した。その後アルキミアは秘教的な営みを指し、キミア(化学)は薬学や経験に根ざした物質操作を指すという使い分けが定着する。

 錬金術は常に疑惑の入り交じった目で見られていた。チョーサーの『僧の従者の話』やベン・ジョンソンの『錬金術師』は、術師たちが駆使する詐欺の手法を描きだしている。教皇や王も錬金術を警戒し、その実践を禁ずる命令をたびたび発した。ただしこれはその術を独占しようとする意図がある場合もあった。金属変性に成功したと称する者たちは援助をうけ、その後牢獄に送られた。

 とりわけブールハーヴェ以降、金属変性を目指す錬金術は化学から切り離され、偽科学と認知されるようになる。だが変性の成功を伝える話がなくなることはなかった。また現代にまで続く錬金術的秘教主義の起源となる書物は1850年に現れた。マリー・アン・サウスの『ヘルメス的神秘に示唆を求めて』である。ここでマリーは錬金術の精神的解釈を強く打ちだした。錬金術が目指したのは賢者の石による金の生成ではなく、精神上の完成(悟り)だというのだ。この考えがカール・ユングに影響をおよぼすことになる。

 金属変性は20世紀後半になって実現された。「1980年には1万ドルという巨費を投じて、カリフォルニア大学バークレー校ローレンス研究所の粒子加速器によって、ビスマスのサンプルが1セントの十億分の一の価値をもつ金に変換された」のであった(33ページ)。