革命前の化学 ブロック『化学の歴史』第2章

化学の歴史〈1〉 (科学史ライブラリー)

化学の歴史〈1〉 (科学史ライブラリー)

  • W・H・ブロック『化学の歴史I』大野誠梅田淳、菊池好行訳、朝倉書店、2003年、35-70ページ。

 第2章ではラヴォアジエ以前のいわゆる「科学革命期」の化学が主題となる。化学は17世紀の自然哲学者たちに難問をつきつけていた。彼らが(比較的)単純な物質として実際にはきわめて複雑なものだった。また物質の気体状態という観念が存在しなかった。この困難のうちで初期近代の化学はいかに展開していったのだろうか。

 パラケルススは伝統的権威を否定して、化学薬品を用いた病気の治療を提唱した。医化学である。この伝統は薬剤師の地位向上とともに栄えることになる。フランスで医化学が人気を博した一因として、王立植物園で体系的な教科書を用いた化学教育が行なわれるようになっていたことがある(ニコーラ・レムリの『化学教程』1675年など)。

 パラケルススの学説を継承しながらも、それに修正を加え独自の医化学を提唱したのがファン・ヘルモントだ。彼は始原物質として水と発酵素を想定した。重要なのはこの学説が定量的な実験にもとづいていたことである。また彼は化学実験のときに生じる発散気を「ガス」と名づけた。だが彼にはガスを集めて研究する手段がなかった。

 ボイルはアリストテレス主義の四元素説にもパラケルススの三原基説にも懐疑的であった。すくなくともそれらは実験によって証明されていない。火によって物質からなにかを得たとしても、そのなにかが元の物質の構成要素そのものだとは限らない。それは火と相互作用してできた新しい物質かもしれないではないか。「ちゃんとした証拠や十分な証明で納得できるまで、判断を保留しなければならない」(49ページ)。一方ボイルは水を始原物質とするヘルモントの学説には魅力を感じていた。それは「創世記」の記述に一致する。また実験によっても補強されている。「ウナギを蒸留すると、残りかすの他に、いくらかの油、精気、揮発性の塩が得られるが、生じた水はこれら以上にはるかに多く…」(50ページ)。

 だが結局のところボイルは物質の究極的構成要素を特定する営み全般に懐疑的な態度をとった。「これこそ元素だといえるくらいにまで、物体を裸のバラバラの原質に解体するなどという、労多くして益のないことを行なわずに、最もうまく、適切に分離すること」こそが重要だと彼はみなした(50ページ)。よってボイルに主たる探究の対象は元素ではない。元素が集合して、その大きさ、形、配置によって特定の性質を発言するようになったものである。ここからボイル以降の化学者たちは、人間によってそれ以上分離できない物体を、元素とみなすようになった。そのような理論の一つが、ベッヒャーの著作からシュタールが発展させたフロギストン説であった。

ニュートンの化学理論はファン・ヘルモントとボイルの強い影響下にあった。前者の水を始原物質とみなす理論から『プリンキピア』で次のような考えが提示される。

太陽、恒星、彗星の尾から生じた蒸気は、最終的には重力によって惑星の大気とぶつかって、そのなかに落ちてゆき、そこで凝縮されて水や湿った精気にかわる。その後、ゆっくりとした加熱により、徐々に塩類、硫黄類、チンキ類、泥、粘土、砂、石、サンゴなど地上物質の形をとるようになった。(62ページ)

同時にニュートンは粒子論者として、ごく短い距離に限って粒子間で強い引力がはたらくと主張した。この引力は化学種の組み合わせによって変化する。ここから18世紀にジョフロワらが探求する選択的親和力の議論を発展させることになる。ニュートンが化学変化を活性化させる原理として導入したエーテルの観念は、ヘルマン・ブールハーヴェ、ウィリアム・カレン、ジョージフ・ブラック、スティーブン・ヘイルズらの研究を導くことになる。とくにヘイルズは空気の固定化を行っており、これは18世紀の「化学革命」に必要不可欠な技法となった。

 化学はこの後、ラヴォアジエによって巨大な転換をむかえる。しかしだからといって錬金術、医化学、伝統的な化学実践、そしてボイルらの活動によって化学が17世紀に変化しなかったとはいえない。むしろ化学もまた「科学革命」全体の動向を共有していたのである。