彗星はくじらのように Boner, "Beached Whales and Priests of God"

  • Patrick Boner, "Beached Whales and Priests of God: Kepler and the Cometary Spirit of 1607," Early Science and Medicine 17 (2012): 589-603.

 ケプラーの彗星論を扱う論考である。ケプラーは1607年に彗星を観測した。この彗星についての報告のなかで彼は、彗星はスピリトゥス(Geist)に導かれているという説を提唱した。この説の解説のために彼はくじらの例を持ちだす。くじらがときに海辺にうちあげられる。それが未来の何らかの予兆ではないかと人々に解釈される。このときくじらは自分が陸に向かっていることを知らない。くじらは「目には見えないスピリチュアルな被造物」に導かれている。このスピリチュアルななにかは、なにかにつけて解釈を与えようとする人間を満足させるためか、神からの何らかの警告を人間に与えるためにくじらを導いてきている。同じよう彗星も宇宙空間から地球の近くへとスピリトゥスに導かれてやってくるというのだ。それは神から与えられる警告なのである。ここから分かるようにケプラーにとって彗星はくじらと類比的にとらえられ、宇宙空間は海と類比的にとらえられる。「海が魚に満ち満ちているように、天は彗星に満ち満ちている」。

 このレポートはルター派神学者の一人からの反発をかった。ケプラーは彗星が消滅するとともに、それをみちびくスピリトゥスも消滅すると当初考えていた。しかしこの神学者によれば、もし霊的なものが消滅するならば、たとえば人間の霊魂も消滅してしまうことになる。これは許されない。この反論を受けてケプラーは自説を修正していく。新しい理論の基礎にあるのは、事物の本質に関する彼の理解である。それは光と類比的にとらえられる。太陽からの光が、緑の事物を現実的に緑にする。それと同じように、神の意志が万物に現実の生命と理性をあたえるのである。彗星を導くスピリトゥスはきわめて微細な物質に神の意志が光線のようにはたらくことにより生まれる。彗星とスピリトゥスが消滅したあとも、神の意志たる光線は消滅しない。それは別の物体とであって作用をし続けるだろう。こうして霊的なものが消滅するという帰結は避けられる。

 後年のケプラーは彗星を導くスピリトゥスという考えを放棄するだろう。彼は彗星は何らかの能力(facultas)によって動き、その能力は彗星の消滅とともに消滅するという学説に到達する。しかしそこでも宇宙空間で起きることを生命からの類比によって語る姿勢は失われていなかった(「能力」とは生物のそれと類比的にとらえられている)。私たちは初期近代の思考においてアナロジーが占めていた位置を軽んじてはならない。