なぜ能動知性は必要ないのか Scaliger, Exotericae Exercitationes, ex. 307, sec. 18

  • Julius Caesar Scaliger, Exotericae Exercitationes (Paris, 1557), 402r-403r (ex. 307, sec. 18).

 アリストテレスは次のような理由から能動知性を導入した。その理由を私は軽蔑はせず尊びたいと思う。なぜならアリストテレスが述べることはすべて比類なきことだからである。アリストテレスが言うにはすべてのものはなにかのうちで、なにかによって生じる。このとき、それが生じる場所を提供するものと、その生成をあたえるものとは別のものでなくてはならない。よって質料知性のうちに普遍が生じるなら、それを生じさせる質料知性とは別の力を想定せねばならない。これが能動知性である。

 しかしこの考えには多くの難点がある。数々の難点を考慮するならば、能動知性は必要なく質料知性だけでよいという結論にいたるか、逆に質料知性は必要なく能動知性だけでよいという結論に達するか、あるいはそもそも能動知性を想定するのは馬鹿げているという認識にいたるであろう。

 まず能動知性が質料知性が現実的には一つのものであり、とらえ方によってのみ異なるとしてみよう。だがそうすると能動知性は不必要に思えてくる。というのも質料的な知性は表象(phantasma)受容したのちに、それを言語活動を通じて裸にしていくことができるからである。たとえばまずカエサルの形象をうけいれるとしよう。これは理解であり、受動的な行いである。質料知性はなにも能動的には行っていない。だがここで「カエサルはカトーではない。なぜならカエサルはここにおり、カトーはあちらにいるからだ」と知性がいうと、そのとき知性は何かを能動的に行っている。このようにして霊魂のより高貴な部分である知性は、受けとった表象について、それがいま、ここにあるということを考察するのである。それにより、カエサルがいまここにおり、かつても存在しており、また未来には別の場所にいるであろうと認識される。これら「いま」とか「かつて」とか「ここ」とかいう付帯的な状況を取りのぞくと、人間の純粋な本性が残る。この純粋な本性はいかなる付帯的な状況によっても限定されていない。知性はまた同じ本性を同じようにしてカトーのうちにも認めうる。したがってそれらが人間に共通の本性であると理解する。このようにして、質料知性は与えられた形象から付帯性を取りのぞいて普遍を獲得することができる。この意味で知性は普遍そのものをつくりだすのではない。むしろ形象から余計なものを取り去って普遍を残すのである。もしこのようにして質料知性だけで普遍を獲得できるならば、どうして能動知性が必要になるだろうか。

 あるいは逆に質料知性は必要なく、能動知性だけで十分とも考えられる。能動知性の支持者らが言うように、能動知性が表象を受けとるとしよう。すると能動知性は表象を理解し、それが個別的なものであることを認識するだろう。そうであるならば、能動知性は表象から個別性を取りのぞき、普遍を獲得するだろう。表象の受け取りから普遍の抽出まで能動知性が行えるということになると、もはや質料知性は必要ないのではないか。

 それと同時に、能動知性の学説は馬鹿げていると考える理由がたくさんある。〔というのも以下のような数々の説が乱立しているからである?;リチェティの解釈〕「というのもある者たちは、能動知性とは拡散し、自らを散乱させている知性であると論じており、また別の者たちは下僕が行うような仕事を行っている世界霊魂であると論じており、またアヴェロエスは『形而上学パラフレーズ』のなかで、それは天の動者のなかで至高のものだとしているからである。また少なくない数の人々が、能動知性を神そのものであるとすら言っている。だがこれはきわめて無分別な考えである。というのも、神は質料によってさまたげられるべきではないし、さまたげられることも不可能であるので、すべての事物に平等に受けいれられ、それらのうちで平等に光り輝いてしまうであろうから。また神は第一の原因として、〔働きかける事物〕相応に作用するのではなく、無限に作用してしまうだろう。よってこの知性は二次原因のうちのなにかと考えねばならない」(Quippe alii diffusam, ac quasi seipsam aspergentem intelligentiam esse, dixere. Alii animam mundi, quae tanquam apparitoris officio fungatur. Avenrois in paraphrasi Metaphysices, esse ultimum motorum caelestium. Aequaliter enim in omnibus reciperetur, et eluceret. Non enim debet, aut potest impediri deus a materia. Neque agit proportionaliter, sed infinite, caussa prima. Oportet igitur intellectum hunc esse aliquid secundarum caussarum.)。

 よってもう少し分別のある人々は能動知性と質料知性とは同じものであり、その能力においてのみ異なると主張している。形象を受けいれる基体となるのが質料知性であり、形象から付帯性をはぎとるのが能動知性であるというのだ。しかしこれはなにも新しい考えではない。私たちも同意できる。

 だが次のような見解〔カルダーノが『霊魂の不死性について』で提示している見解〕は嘲笑の対象でしかない。能動知性は生きているときに知ったことを死後には忘れてしまうという考えである。ある生で学んだことは忘れて、また次の生で学ぶのである。だがもし知性が神的なものであり、それが人間のうちに形象をもたらすなら、人間という牢獄のうちで一から学ぶ生徒になることなどあるまい。

 以上からヴィヴェスの間違いも明らかとなる。彼は単純な言葉は単純な知性認識から、複合的な言葉は表象から、完全な文章は理論だった言語活動から発するとのべている。だが単純なものであれ、複合的なものであれ、知性によって生みだされるというのは変わりないのだ。

 またメランヒトンのように、能動知性はさまざまな発明の生みだし手であり、質料知性は役目を免除されたうえで、能動知性に使える兵士のようなものと考えるのは不合理である。そのように考えるなら、すべての言語活動と推論は能動知性から来ることになってしまう。実際彼は、能動知性があらゆる思慮の源であり、父であるといっているからである。ならば質料知性はいらないのではないか。