不死と可死の中間の人間霊魂 Schegk, De plastica seminis facultate, bk. 3, #8

  • Jacob Schegk, De plastica seminis facultate libri tres (Strasbourg: Bernard Jobin, 1580), sigs. H3r–H4r.

 したがって、身体から離れており、他のなにかの助けもなくすべてを知る知性は、知的形象をつくりだしたり、形象を受けいれたりする力を有していない。それは感覚によってとられられる実体の付帯性によってはじめて認識するという意味での可能態のうちにはない。そのような知性はむしろ現実態であり、そこでは知性と、思惟対象、思惟活動が一致する。すでに述べたように人間はこのような知性ではなく、むしろ人間の知性は身体のうちに存在し、基体である身体の可能態と複合体を形成している。人間の知性は「それ自体であるもの」(『形而上学』1045b1)ではなく、別のなにかと複合しており、それと複合することによってはじめて人間知性と名指される当の事物になっている。

 よって人間の霊魂は神的な形相と自然的な形相の中間にある。この不死と可死の両方に与っているからこそ、人間は被造物のうちの結節点であるといえる。このことは知性が霊魂の一部でなかったならば不可能であった。一部であるからこそ精神は身体と複合しているのである(可死性にあずかる)し、霊魂は身体から離れることができる(不死性にあずかる)からである。ここからアヴェロエスのようにすべての人間に単一の霊魂を想定する者も、受動知性だけを想定し、能動知性を想定しないもの(スカリゲルのような者)も間違っていることがわかる。