はじめにかたちがあった 加藤『ギリシア哲学史』「ギリシア哲学の本質」

OD>ギリシア哲学史

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 本書の冒頭には、「ギリシア哲学の本質」と題した特異な節が置かれている。古代ギリシア哲学を貫く根本的な考え方を提示するために置かれたものだ。この考えはかならずしも明示的に語られないため、多くの史料を読み解き、それぞれの史料を支える前提を抽出し、そのうえで各史料にまたがって現れる要素を見いだし、それを抽象的なレベルで自分の言葉で言い表さねばならない。長年の研鑽のうえにしか成り立たない仕事である。私はまだ十全に理解できたとはいえないものの、とりあえずその大要をメモしておこう。
 
 「ギリシア哲学が成立した」とは、存在が「かたち」として把握されたということである。それぞれのものはそれを一つのまとまりとしている「かたち」をもっている。これはある種の「きまり」であり、この「きまり」にそってそれぞれのものは「ある」。このようなものが私たちに顕現しているというのがギリシア哲学の中心的な洞察である。この顕わになる場所が理性である。このとき理性という能力によりかたちを把握するというよりも、むしろ事物はそのかたちをおのずから顕わにしているという根本的な事態がまず先にあり、それが私たちに現れるところが理性と考えられているのだと理解するべきである。このように理性においてかたちが現れているときにノエイン(理性的把握)がある。ノエインによって、理性のうちにかたちがあらわれているとき、かたちは美という形式をともなって現前している。美をともなって輝きながら存在は現前するのである。こうして顕現したかたちを言語(ロゴス)によって私たちは語ろうとするし、語ろうとせざるをえない。これにより人間は自分に顕現している存在のうちに引き入れられ、存在のうちにとどめおかれる。こうして持続的に発現するようになった存在が真実(アレーテイア)である。この真実により人間のあり方は決まる。つまり真実から徳としての賢慮(フロネーシス)が生まれるのである。