人間と動物 金森『動物に魂はあるのか』#1

  • 金森修『動物に魂はあるのか 生命を見つめる哲学』中公新書、2012年、1–114ページ。

 第3章までを読みました。西洋哲学上の大問題を扱う書物です。理性を持つ動物というのが人間の定義であることからわかるように、アリストテレスにとって人間をその他の動物から分けるのは理性の所有でした。これは所持する霊魂の違いとしても言い表されます。人間は理性的霊魂を持つが、動物は感覚的霊魂しか持たない。しかし同時にアリストテレスは自然に目的性を認めていました。鳥が巣をつくるのは子育てのためである。ここに困難が生まれます。理性を持たないはずの動物が目的に適った行動をとるのはどうしてか。人間理性そのものとは言わずとも、理性の影絵のようなものを動物に認めるべきではないのか。だがひとたびこの道に踏み出すと今度は人間の理性的霊魂の特権性がおかされるように思えます。結局人間と動物の違いは程度の違いに過ぎないのでは?

 人間霊魂の特権性はキリスト教信仰ではなんとしても守られなくてはなりませんでした。なぜなら人間の霊魂だけが肉体の死後も生き残り、裁きを受けることになるはずだからです。だったらいかなる意味でも人間とその他の動物の混同が生じないように、動物からいかなる目的意識も推論能力もはぎ取って、動物は機械に過ぎないとみなしていいのではなかろうか。デカルトはこの方向に進みました。しかしではなぜ動物は目的に適った動きを現にしているのか。マルブランシュに言わせれば、目的に適った行動をとるからといって、そのものに知性があるとは限らない。動物の場合、むしろそのように合理的に動く機械として動物を調整した神の側に知性があるのです。

 一方、デカルトとは反対向きに議論を進めることもできます。動物の持つ合理性を持つ行動様式と、人間のそれとは本質的に異ならないのではないでしょうか。理性的霊魂と感覚的霊魂のあいだに違いはないのではないでしょうか。とするならば次の二つの可能性が残ります。人間の霊魂も動物の霊魂と同じように肉体とともに消滅する。あるいは動物の霊魂も人間の霊魂と同じように不死である。このような破壊的な結論を導いてみせたのが、ピエール・ベールでした。

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