知性単一論に向けて Taylor, Long commentary on the De Anima of Aristotle, #2

Long Commentary on the De Anima of Aristotle (Yale Library of Medieval Philosophy Series)

Long Commentary on the De Anima of Aristotle (Yale Library of Medieval Philosophy Series)

  • Richard C. Taylor, "Introduction," in Long commentary on the De Anima of Aristotle, trans. Richard C. Taylor with Thérèse-Anne Druart (New Haven: Yale University Press, 2009), xv-cix, here xlii-xlix.

 『中注解』と『大注解』のあいだに位置する著作に Epistle 1 On Conjunction がある。そこでアヴェロエスは『中注解』でしめしたのと同じ知性理解を提示すると同時に、次のように問いかけてもいる。人間の性向であるところの質料知性はひとつであり、すべての人間に共通だということはないのか、と。これは知性単一論であり、後に『大注解』で発展させられる学説を予告する最初の言明である。

 どうしてこのような可能性をアヴェロエスは示唆するにいたったのか。まず彼が知性認識を天の運動との類比で理解していたことを思いだそう。天ではいくつもの知性の欲求にしたがい、それと同じ数だけの霊魂が、それと同じ数だけの天体を動かす。たいして知性認識の場合、能動知性はひとつである。とすれば対応する質料知性もひとつでいいのではないか。

 アヴェロエスはまた能動知性は人間にとっての作用因であり、形相因であり、目的因であると考えていた。これらの原因がひとつであるならば、それに対応する結果の方もひとつと考えるのが自然ではないだろうか。さらにそのうえ、知性が自己認識が可能であるという点も、質料知性を一つと考える方向へアヴェロエスをうながすはずだと著者は論じる[ここの論旨はよくとれない]。

 これらの要素が質料知性単一論へとアヴェロエスを導きえたにもかかわらず、どうしてアヴェロエスは Epistle の段階では、各人間ごとに質料知性を認めるにとどまったのだろう。なにが知性単一論への移行を阻んだのか。理由は彼の知性認識対象(intelligibles)についての理解にあったと思われる。『中注解』の構図では、能動知性が想像力の内容を現実態とすることで、知性認識対象が現実たいとなり、それが質料知性として成立する。このとき認識対象はあくまで想像力から供給される。能動知性は供給された知性認識対象を可能態から現実態にもたらすのみである。ということは知性認識対象は、想像力を有する個体の数だけ個体化されていることになる。人間の数だけ知性認識対象があるのだ。このように多数化された知性認識対象が現実化されたものが質料知性にほかならないため(「活動実現状態にある知性は知性認識されている事象と同一である」)、質料知性もまた多数なければならない。

 しかし知性認識対象が個体ごとにあると考えていいのだろうか。すると私が認識する馬と、あなたが認識する馬の同一性が崩れてしまわないのだろうか。こうなっては普遍は共有されず、学問は成り立たないのではないか。むしろ私の馬とあなたの馬は完全に、数的に同一であってこそ、はじめて私たちは同じ馬を理解していると言えるのではないか。この問題に直面し、知性認識対象について新たな理解を獲得することから、アヴェロエスの知性単一論は生まれた。新たな理解の鍵をにぎったのはテミスティオスの『霊魂論パラフレーズ』である。