教皇のいない教会へ アッポルド『宗教改革小史』第2章

宗教改革小史 (コンパクト・ヒストリー)

宗教改革小史 (コンパクト・ヒストリー)

  • K・G・アッポルド『宗教改革小史』徳善義和訳、教文館、2012年、15-80ページ。

 第2章ではいよいよルターが登場する。その贖宥状批判や信仰義認論はよく知られているので、ここでは彼が翻した反旗がどうしてあれほどひろがったのかを考察した節だけをまとめよう。

 1517年にルター行った批判は、贖宥状の効力に対するものにとどまっており、直接的な教皇批判を含んではいなかった。だが教皇庁はそうとらなかった。教皇の権威を否定する者としてルターを告発したのである。ルターは憤る。彼が求めていたのは真理をつきとめるための討論であった。神学教授としての責務でもある討論の権利を、権威でもって剥奪することはゆるされない。ここからルターは真理のあり方を教皇が決め、教皇が斥けた者が異端となるという教皇制への批判に向かった。教皇庁はその過剰反応により、戦線を贖宥状からおのれの権威をめぐるそれへと拡大してしまったのであった(同時にローマの人々は、ルターを田舎大学の一介の教授に過ぎないと侮ってもいた)。

 このような過剰な反応を教皇庁にさせるような時代状況があった。15世紀の公会議主義はなんとか抑えこんだものの、フランス、スペイン、スイス、そして有力都市はそれぞれ独自の教会組織をつくりはじめていた。各大学は公会議主義の拠点となるなどし、教皇主義への抵抗をしめしていた。これにたいして教皇庁は無力であった。無力であるばかりでなく、使徒的人物とはほどとおいロドリゴ・ボルジアを教皇として選出してしまうほどであった。

 使徒的に生きようとするキリスト者たちは、既存の教会組織に頼らず、独自の信仰生活を送ろうとしていた。その信仰の核心からは伝統的秘跡は排除されていた。秘跡を排他的に管理する権限を有することこそが、教皇の権力の源泉の一つであった。その秘跡の外で信仰生活が営まれることは、教皇と教会の役割の否定にほかならない。事実、新たな信仰形態を求めた人々にとって、教会や聖職者とは彼らが軽侮したこの世的価値観を象徴するものでしかなかった。

 このような秘跡の一つである贖宥がルターの標的となった。ルターが考えるに、それは原初のキリスト教の理想とは何の関係もない。教会で司祭が行う告解と贖罪は、イエスが説いた悔い改めとは別物なのだ。「箱の中へ投げ入れられた金が音を立てるや否や、魂が煉獄から飛び上がるという人たちは、人間(のつくりごと)を宣べ伝えているのである」(88ページ)。

 以上の事情を考慮するならば、ルターの批判に教皇庁が過剰反応したのはわけが理解できる。この反応により拡大した戦線は、印刷技術を通じて拡散し、ルターの声は支持をえていった。ついに教皇庁はルターを破門する。しかしそれにより彼がローマに連行され処刑されるということはなかった。教皇の組織からの排除はキリスト教世界からの排除にはもはやならなかった。教皇組織の外に、教皇のない教会が生まれることになる。