禁教のなかのオラショと聖なるモノ 岡「贖宥への祈り」

文学 2012年 10月号 [雑誌]

文学 2012年 10月号 [雑誌]

  • 岡美穂子「贖宥への祈り マリア十五玄義と「オラショの功力」」『文学』第13巻・第5号、2012年9–10月、31–44ページ。

 「かくれキリシタン信仰のルーツに迫った画期的な論文」として読書を勧められた論文です。かくれキリシタンの里として知られる長崎の黒崎地区には、近隣の出津地区より譲り受けた「マリア十五玄義」の模写が保存されています。この絵にフランシスコ会士が描かれていることは何を意味するのでしょう。肥前の国では1602年に藩主の大村喜前が、父の代からのキリスト教信仰を捨て日蓮宗に改宗し領内のキリシタンを迫害しました。これにより大量の棄教者が出ます。この時フランシスコ会ドミニコ会が再布教を行い、多くのものがキリスト教の信仰に立ち返ったと言います。ここに黒崎を含む外界地方に、托鉢修道会の痕跡が残る背景を見出すことができます。

 司祭の追放が行われた禁教期にフランシスコ会などの托鉢修道会が勢力を伸長させたのは、それらがコンフラリアという互助信仰会が有していたからと推測されます。この組織が司祭不在のなか、一般信徒の協力により信仰を実践する基盤となりました。イエズス会もこの組織を有していたものの、托鉢修道会のそれと異なりコンフラリアに贖宥権を与えることができませんでした。贖宥とは天国に行くに十分でない者に償いの免除を与え、召天を可能にすることです(贖宥状[免罪符]を思い起こしてください)。この権利をコンフラリアが与えられたという特典のため、フランシスコ会ドミニコ会の勢力が拡大したと考えられます。

 イエズス会も手をこまねいていたわけではなく、司祭不在であっても罪が許され天国へ行けるという仕組みを導入しました。その証拠がかくれキリシタンオラショの一つである「こんちりさんのりやく」に見られます。ここでは聴罪司祭への懺悔ができずとも、自ら深く悔悛すれば赦しが得られるとされています。

 托鉢修道会も同種の布教戦略をとっていたと考えられます。オラショの一つである「オラショの功力(くりき)」は、教皇インノケンティウス九世の勅書の内容とほぼ一致しています。そこで説かれているのは、ロザリオ、メダイ、聖画、アニュス・デイを所持して祈ることで、贖宥が得られるということです。元来の勅書と日本に残るオラショとの比較からは、このオラショからはイエズス会の特権を認めた個所が削除されていることが分かります。このことから托鉢修道会の一派が勅書を修正して「オラショの功力」をつくり長崎で広めていたことが分かります。

 1865年に日本を訪れたプチジャンは、日本の信徒たちが自分を聴罪司祭と認め喜んでいるにもかかわらず、すぐに懺悔をしようとはせず、むしろ執拗にメダイ、ロザリオ、聖画といったものを求めたことを記録しています。司祭がいない中で信仰を持ち続けた人々は、「オラショの功力」が言うところの救いを可能にする「聖なるモノ」信仰を深めるにいたっていたのです。オラショにしても聖なるモノにしても、その意味は司祭不在のなかで赦され天国へ行くことを求めていたキリシタンたちの信仰形態に即して理解されねばなりません。

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