「第一の戦後」期における「市民」 小熊『〈民主〉と〈愛国〉』

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

 本書の主要なテーゼの一つに、1945年から1955年までの「第一の戦後」期と55年体制成立以降の「第二の戦後」期では、さまざまな単語の用いられ方に違いがみられるというものがあります。用法が変化した単語の一つとして挙げられるのが「市民」です。変化の内実を簡単にいうなら、第一の戦後期では市民という単語はおよそ肯定的なニュアンスでは用いられず、第二の戦後期に入ってはじめて肯定的な意味がこめられはじめるというものです。
 第一の戦後期では、戦前からの連続性をもってマルクス主義の図式で歴史はとらえられていました。そこで批判の対象となり乗りこえられるべきものとされたのは近代であり、近代とは市民の集合からなると考えられました。この市民の正体は要するにブルジョワです。ブルジョワ=市民は個人主義を奉じ、国家からの自由を目指し、最終的に世界市民コスモポリタン)たろうとします。こうして国家から自由に、国境をまたいで利益を追求する資本家[グローバル人材?]にいたるというわけです。市民の対極にあるのが、国民であり民族です。市民が離脱しようとする国家において、政治活動に積極的に参画する国民や民族が現れてはじめて新しい形の「主体性」が獲得されるとされます。
 このような市民観はマルクス主義に規定されたものであると同時に、当時の社会のあり方を反映したものでもありました。農業にも手工業も従事せず、都市で「サラリーマン」(や弁護士)として生計を立てる市民は、インテリゲンチャであり、言い方を変えればプチブルでした。
 市民観が社会のあり方の反映であったがために、社会のあり方が変化すると市民という言葉に込められるニュアンスも変わります。農村から都市への急速な人口流入によりサラリーマン層が分厚くなるにつれ、市民という単語の使用頻度も高くなり、ブルジョワの代名詞という否定的ニュアンスは失われていきます。こうしたなかで丸山はcitoyenの訳語を公民から市民へと変化させました。1957年のことであり、「もはや『戦後』ではない」(56年経済白書)。第二の戦後がはじまっていました。