「ルネサンス人文主義とキリシタンの世紀」参加報告記

 7月18日、19日の二日間にわたって行われた学術会議「ルネサンス人文主義キリシタンの世紀」に参加してきました。自分のをのぞくすべての発表についてしっかりノートをとり、大いに学びました。

 そうやって聞いていると、各発表のあいだに思いもよらないつながりが見えてくるものです。たとえばコインブラの『天について』注解を扱うルイスの発表、ラムスのガリア主義をとりあげた久保田さんの発表、そしてシェンケルの記憶術に焦点をあてた桑木野さんの発表はみな、いかに効率よく学ぶべきことを吸収するかという16世紀の問題意識を浮きぼりにしていました。この単一の目的のためにコインブラでは体系的な教科書が作成され、フランスではラムスの方法は編みだされ、そしてシェンケルは記憶の技法をオランダで磨きあげたのです。これらの発表につき、Ann Blairの近刊書『知るには多すぎて Too Much to Know』とつきあわせて討議すると、16世紀の一大課題である情報処理システムの構築について、宗派や地域を横断した認識を得られるように思いました。

 久保田さんの発表はヒロさんと村瀬さんの発表とつながります。ラムス、ミゾー、そしてパラケルスス主義者たちをつなぐのが「古代神学 prisca theologia」です。しかしこの同じ観念は、各論者によって違う現れかたをします。ミゾーのそれが師であるフェルネルから引きついだいわば標準的なルネサンスプラトン主義の古代神学であるとするなら、ラムスのそれは彼のガリア主義と深く結びついた特異なものでした。ラムスによれば古代のガリアにたしかに存在していた知はその後ギリシアに移り、それがいまめぐりめぐって再びガリアに、フランスに帰って来ているというのです。一方既存の権威を批判していたパラケルスス主義者たちは、太古の純粋な知恵はアリストテレスとガレノスに代表される異教の哲学によって汚染されてしまったと考えていました。そこで太古の純粋な知恵に、異教徒の書物を通してではなく、自然という書物から出発する経験を通じて立ち返らねばならないというのです。

 ヒロさんの発表から東さんの発表へと移動してみましょう。発表中ではそれほどフォーカスされていなかったものの、ヒロさんによればミゾーのプラトン主義は重要な点でプロクロスに依拠していたと論じていました。このプロクロスこそは、数学の確実性をめぐる16世紀の論争のなかで重要な参照点となっていた人物でした。プラトン主義的医学と数学の地位をめぐる学問論は一見かけ離れてみえるものの、ルネサンス人文主義による古代文献の復興にともに多くを負っていたのです。

 この復興により表舞台に現れたのは、プラトン主義関係の著作ではありませんでした。アリストテレス主義も刷新されます。その重要な局面の一つとして東さんがとりあげたのが15世紀から16世紀にアヴェロエスが与えた「セカンド・インパクト」でした。この論点は私が強調した点でもあります。アヴェロエスのほぼ全著作が15世紀末より利用可能になりました。これにより興味深い現象が起こります。歴史上のアヴェロエスはその学説を時期により変化させていました。しかしルネサンスの知識人たちは、そのような変化の存在には多くの場合きがつかず、アヴェロエス著作集を一つの全体としてとらえます。それにより、アヴェロエス著作集のなかには複数のアヴェロエスが混在することになりました。これこそがアヴェロエスをめぐる多様な解釈を呼び、その影響力が偏在することになった一つの要因でした。

 少し戻り村瀬さんの発表へと立ち戻りましょう。その発表は1560年代よりはじまるパラケルススの(偽作を含む)著作集の出版事業に端を発するパラケルスス運動に焦点を当てたものでした。彼らはアリストテレスとガレノスに代表される既存の権威を鋭く批判しており、実はそのための道具として終末論が機能していたという衝撃的な結論が導かれました。しかしこのような批判はもちろん反発を引き起こします。ディディエの発表から明らかになるのは、はやくも1570年代後半にはパリ大学医学部でパラケルスス主義を検閲しようという動きが起こっていたことです。このとき医学部は、パラケルスス著作集にある神学的に問題含みの命題を異端的として神学部に認定してもらうよう動きました。結局最終的には議会の承認が得られず、検閲にはいたらなかったものの、パラケルスス主義は悪魔による支配拡張の道具ではないかという反パラケルスス主義者たちの危惧は残り続けることになります。

 悪魔はパリと日本をつなぎます。悪魔が住まう世界にいたキリスト教徒たちが、その宣教先で悪魔を見いださないはずはありませんでした。とりわけ異教信仰というのは悪魔の企みによる起こると考える彼らにとって、悪魔からの日本の解放は、福音を宣べ伝えるという使命と直結していました。この大きな認識の枠組からは、彼らは日本でも悪魔につかれたとおぼしき人々を、祈りや聖遺物でもって救済していきました。しかし布教は最終的には失敗します。この失敗はやはり悪魔による妨害のためと説明されたのでした。

 宣教が失敗したのは、キリスト教が禁止されたからです。日本からの撤退を余儀なくされたイエズス会では、アジア宣教での主導権をめぐって内部対立が生じます。日本派と中国派の対立が置き、論争に発展します。この論争を追跡した木崎さんの発表からは、日本派がまさにキリスト教が禁止されているという点を逆手にとってその霊的な優越性を唱えていたことがわかりました。とりわけ強調されたのが日本での殉教者の存在です。うがった見方をするならば、禁教により日本は殉教者という強力な霊的資源を獲得したのでした。

 日本派の主張のうちには、日本には確かに壮麗な教会建築物はない。しかしそこではクリスチャンの各家庭が一つ一つ教会となっており、これは原始教会を想起させるという主張がありました。教会組織はなくとも信徒はいるというのです。この特異な状況でキリスト教がいかに信仰生活が変化したのかを追跡したのが、折井さんの発表でした。元来は聖職者と俗人の役割を分けて記述していた文書が、潜伏キリシタンの所持していた文書では、その区分が消去されているのです。これは信徒あれども教会組織なしという、日本の状況に応じた適応でした。

 殉教者を出し、禁教のなかでも信仰を保持し続けるほどの信仰がどうして日本で生まれたのでしょうか。清水さんの発表は、日本に元来存在していた救済への強い願望と、「天道」というすべてを統べる神格を意味する観念が存在したことが、キリスト教を受け入れる土壌となったのではないかとするものでした。とりわけ救済について各宗派が矛盾したことを主張しているようにみえる既存宗教にたいして、キリスト教が単一の明確な見通しをしめしているように思われたことが重要であったとされます。しかしその矛盾に体現される多様性こそが、キリスト教を棄教し、反キリスト教の文書を書いたファビアンのような人物が日本にあるべき信仰として称揚した価値であったと、会議の最後にあたる根占発表は論じます。

 短期間であったとはいえ、日本で活動した宣教師たちは信仰を宣べ伝えるためさまざまな事業を展開しました。カルラの発表は、17世紀初頭の都市長崎における兄弟会組織と教会の地理的配置を再現するもので、こんな復元が可能なのかと驚きを呼ぶものでした。都市史研究の場で歴史研究の場で発表すればよりしっかりとした反応がえられたでしょう。

 イエズス会組織のなかでは信徒への教育も行われていました。スチュワートの発表はラテン語教育に関するもので、とりわけ原マルチノが執筆したラテン語散文を分析するものでした。そこではキケロセネカに範をとった文体で、古典の素材がキリスト教の文脈のなかに巧みに落としこまれています。ルネサンス人文主義が宣教先に拡張していっているのです。一方チャールズの発表に現れたのは、イエズス会の学校のなかでの音楽教育でした。それはイエズス会による広範な音楽活用のなかの一局面を構成していました。実際、会士たちは生徒に音楽を教えるだけでなく(定期的に歌う時間があった)、各種儀式に際して奏でるべき音楽について記した書物を長崎で印刷していましたし、また都市では音楽を奏でながら行進し、日本人を引きつけようとしていました。残りえない音のあり方をさまざまな史料から復元しようとする発表は、発表者本人による演奏により幕を閉じます。

 数多くの知らなかったこと、そして知っていたとしてもそれが思わぬつながりを持っていることを学んだ二日間でした。同時に今回はじめて英語で発表する人たちによる挑戦する姿にも感銘をうけました。各々がこの最初の一歩を踏みだすことによってはじめて、少しずつ学問は進展していくのです。そのような挑戦の機会を常に積極的に与えている主催者の根占献一、およびヒロ・ヒライへの敬意をあらわしながら、すこしばかり長くなりすぎたこの参加記を閉じたいと思います。