性の抑圧を悔いる意志 フーコー『知への意志』#1

知への意志 (性の歴史)

知への意志 (性の歴史)

 フーコー『知への意志』の冒頭部「我らヴィクトリア朝の人間」を読む。

 性現象について広くいきわたっている考え方がある。17世紀初頭まで、人びとは性について率直に語っていたのにたいし、それ以降そのような語りへの抑圧が強まったというのだ。それにより性行為が正当に行われる場所は両親の寝室だけとなり、子供は性(セックス)をもたないと想定される。このような想定から外れるような発言や行為は無視される。

 このように性現象の歴史を抑圧の増大として理解することが、この200年ほど行われてきた。この理解が維持されている理由をふたつ考えることができる。第一に、こう理解することで、性への抑圧の出現を資本主義の出現と重ねあわせることができる。性の抑圧を、労働生産性を高めるための一方策として解釈できるというわけだ。第二に、抑圧を前提とすることで、性について語る事自体をなにかラディカルな行為とみせかけることができる。これが語り手の利益となる。この利益のために抑圧の仮説は維持される。

 ここには興味深い構造がある。抑圧があるという主張は常に、抑圧からの開放を唱える声とセットである。この声は自分たちが17世紀以来性にたいして抑圧という過ちをおかしてきたと執拗に指摘する。なぜこのように後悔するのだろうか。このような後悔によってなにが達成されているのだろうか。

 この問いに答えるために、抑圧の仮説にたいして3つの疑念をさしはさむことができる。第一に、本当に性は抑圧されてきたのか。第二に、性が権力によって抑圧されてきたというものの、ほんとうに近代社会において権力というのは抑圧という回路を通じて作動しているのか。第三に、抑圧と抑圧を告発する声は根本的に対立するようにみえながら、本当のところは同じ現実をともに支えているのではないか。

 このような疑念を検証することで、抑圧の仮説を17世紀以来の性に関する言説全体のうちに置きなおして検討することができる。この検討に意味があるのは、性の抑圧があるとしても、それは性についての言説の一部を構成するにすぎないからである。性について語るにあたっては、なによりも性の禁忌(抑圧)について語らなければならないという問題のたて方にすでに罠がひそんでいる以上、これを回避して抑圧の仮説をより広い脈略でとらえねばならない。誰がどこでどうやって性について語ってきたのか。その語りによっていかに権力がさまざまな形で作用してきたのか。このような作用はけっきょくのところいかなる意志によって支えられているのか。これを問わねばならない。