ミシェル・フーコー講義集成 1 〈知への意志〉講義: 知への意志講義 コレージュ・ド・フランス講義1970─1971年度
- 作者: ミシェルフーコー,Michel Foucault,慎改康之,藤山真
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2014/03/17
- メディア: 単行本
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- ミシェル・フーコー『知への意志講義 コレージュ・ド・フランス講義1970-1971年度』ミシェル・フーコー講義集成 1, 慎改康之、藤山真訳、筑摩書房、2014年、3–53ページ。
コレージュ・ド・フランスでのフーコーの講義は、アリストテレス『形而上学』冒頭部の分析からはじまる。そこでアリストテレスが歴史的に重要な操作をひそかに行っているというのだ。
周知のように『形而上学』は次のようにはじまる。
すべての人間は、その自然本性によって、認識への欲望を持っている。諸感覚によって引き起こされる快楽がそのことの証拠である。実際、諸感覚はその有用性を抜きにしても、それら自身によって我々に好まれるものである。そして、あらゆる感覚のなかで最も我々に好まれるのが、視覚である。(8ページ)
この名高い箇所はそれほど単純な成り立ちをしていない。ここでアリストテレスは3つの移動を行っているとフーコーは考える。1) まず認識から感覚への移動がある。なぜ認識への欲望が存在することの証拠が、快楽をともなう感覚の存在なのか。2) 続いて自然(本性)から非有用性への移動がみられる。自然に組み込まれた認識への欲望が、どうして有用性を抜きにした感覚の欲望と結びつくのか。自然にしたがうなら感覚とは有用なものではないのか。3) 最後に欲望から快楽への移動である。なぜ快楽が鍵をにぎるのか。
第一の移動でアリストテレスが前提としているのは、正しい認識と結びつく感覚だけが本当の快楽をもたらすということである。この別形として、より多くの認識をもたらす視覚こそが、最大の快楽をもたらすというテーゼがある。こうして快楽をともなう感覚は認識と不可分であるがゆえに、感覚に快楽がともなうことは、認識を欲望することの一つの例となる。あるいは認識の荒削りな形態として感覚を語ることができるようになる。
するとしかし、動物は感覚により快楽を得ているにもかかわらず、どうして認識を欲望しないのかという問題が生じる。動物と人間でなにが違うのか。ここで第二の移動が機能する。人間が動物と異なるのは、人間が有用でない感覚から快楽を引き出せる点にある。聴覚は一部の動物にしかない。また記憶は人間にしかない。聴覚は学びを可能にし、学んだことが記憶される。こうしてテクネーとエピステーメーが生じる。これらは究極的にはソフィアを目指す。ここの聴覚、テクネー、エピステーメー、ソフィアのすべては有用性とゆるいつながりしかもたないか、あるいは有用性とまったくかかわらないとアリストテレスは考えていた。とくにソフィアは何かの役に立つためではなく、それ自身のために追求される。言い方を変えるなら、認識のための認識(ソフィア)が本性として終着にあるからこそ、人間はさほど有用でない感覚から快楽をえる。一見不自然に思われる自然から非有用性への移動は、人間本性の特殊性を際立たせているのである。
認識のための認識が終着点にあることから、第3の移動も説明される。ここで感覚がもたらすとされる快楽とは、確かに感覚にともなう快楽全般の一種であるのだが、同時に有用ならざる感覚にともなうものとして、後に到来する認識・観想を予告している。一般的な快楽ではなく、このような特殊な種類の快楽が想定されているからこそ、それは認識への欲望と強く結びつく。
以上のような一連の移動から議論を構築することで、アリストテレスはなにを行ったか。彼はあたかも認識に先立ち、認識を駆動する欲望について語るかのようだ。しかしその語りのなかで、アリストテレスは欲望の前提に認識を置くという操作をしのび込ませている。欲望があるところには必ず存在する快楽は、真なるなにかを感覚することによってえられる。つまり真なる感覚という認識が快楽を可能にし、欲望を成立させている。しかも人間の場合、有用ならざる感覚から快楽をえることができ、それはその感覚が来るべき観想・知恵・真理の前触れとなっているからである。ここでは終極にある知恵が快楽を保証している。認識はこうして欲望を可能にし、欲望を導くのだ。これら認識と欲望をつなぐ結節点となるのはなにか。以上の推論の各所に現れる真理である。
こうして認識とは欲望によってもたらされるのではなく、実は認識そのものを原因として生じてくるものとなる。認識を基礎づけるのは認識であって、認識の外部にあるなにかではない。こうすることでアリストテレスはいくつかの主題と決別する。まずギリシア悲劇に顕著に現れる、人が自らの外にある神々のたくらみにより、知と、それも危険であり本人には理解不能であるような知とかかわりあうという主題が排除される(詩的で神話的な言語からの決別でもある)。第二に、知を知そのもののためではなく、特定の目的のために求め、それゆえ知を売り物であり、貴重品であるかのようにみなすソフィストの観点が消し去られる(弁論術的で政治的な議論からの決別でもある)。最後に認識を自然本性に組みこむことで、プラトンの想起説を否定する。
つまるところ、アリストテレスは認識の欲望について語ることを通じて、欲望を消去した。哲学を認識のうちに、ひいては真理のうちに安住させるこの操作のうえに、彼はまた哲学史を構築している。こうしてアリストテレスは認識・真理を自律させ、その閉じたシステムに哲学の名を与えた。この操作の一例を『形而上学』冒頭部は示しているのである。