神の前に平等な歴史 ランケ『世界史概観』

世界史概観―近世史の諸時代 (1961年) (岩波文庫)

世界史概観―近世史の諸時代 (1961年) (岩波文庫)

  • ランケ『世界史概観 近世史の諸時代』鈴木成高、相原信作訳、岩波文庫、1961年、33–46ページ。

 ランケの『世界史講義』の冒頭部を読む。

 ランケはまず進歩の理念を検討する。人間全体が原始状態から進歩していくとしよう。この進歩は二通りのやり方で考えられる。ひとつは人間全体をみちびく単一の意志があるとするものである。もうひとつは、個々の人間のうちに進歩へと人間を駆り立てる素質のようなものがあると考えるものである。しかしどちらの見方もとれない。最初の見方だと人間は単なる道具である。第二の見方によると、人間自体が神になってしまう[か、あるいは人間は無になるらしい。なぜ無になるのかはよくわからない]。

 しかも全人類の進歩という考え方は歴史的にも証明できない。「なんとなれば、まず第一に、人類の大半がいまなお原始状態にあり、出発点そのものにとどまっている」。また進歩が普段であるとはいえない。たとえばアジアは最古の時代に最高の偉大さに達したものの、蒙古族の侵入とともに、その「文化はまったく終末を告げた」。しかも歴史をみると、進歩は分野ごとに異なったペースで起きている。たとえば美術は15-16世紀に発展したが、17世紀から18世紀後半は停滞していた。また16世紀後半は宗教的要素が強かった一方で、18世紀は実用主義が支配した。

 よって全体としての変化ではなく、各時代の固有性に目を向けねばならない。ある時代はつづく進歩をもたらすための単なる踏み台ではない。ひとつひとつの時代は固有性をもつ。もちろん、歴史には前後関係があるため、時間の流れにそって進歩が認められる場合がある。しかしこれは全人類からなる巨大なひとつの川の流れとしてとらえられるべきではない。特殊性をもったある時代が進んでいった過程とみなすべきだ。

 以上の議論とは別に、ランケは各時代の固有性を正当化するもうひとつの根拠をもっていた。神である。神の前では時間は存在しない。神は歴史の全体を見渡している。それゆえどの時代にも平等な価値が認められる。「神の前においては人類のどの時代も、すべて平等の権利をもつものであり、したがって歴史家もまた、事柄をそういう眼でみなければならないのである」。

 ここからヘーゲル学派が批判される。ヘーゲル学派は歴史を理念の自己展開として理解していた。しかしこれでは、人間は「理念によってみたされた影かあるいは図形にすぎないものとなってしまうであろう」。よってヘーゲル学派のように、人類の進歩をみちびく単一の理念を想定することはできない。歴史をみちびく「指導的理念」とは、それぞれの時代を特徴づける支配的特徴ということになるだろう。しかもこの傾向は、単一の概念に集約することはできない。ただ記述されるだけである。