神が神を生む中世 Paasch, Divine Production, #1

Divine Production in Late Medieval Trinitarian Theology: Henry of Ghent, Duns Scotus, and William Ockham (Oxford Theological Monographs)

Divine Production in Late Medieval Trinitarian Theology: Henry of Ghent, Duns Scotus, and William Ockham (Oxford Theological Monographs)

  • JT Paasch, Divine Production in Late Medieval Trinitarian Theology: Henry of Ghent, Duns Scotus, and William Ockham (Oxford: Oxford University Press, 2012), 1–21.

 後期中世の三位一体論について、比較的新しめのモノグラフがあったので、その序文を読む。

 キリスト教の神は三位一体の神であり、父、子、聖霊からなる。父は子を生む。父と子は聖霊を生む(ラテンの伝統では)。しかしこの「生む」とはいかなる意味なのか。たとえば父が子を生むやり方と、父と子が聖霊を生むやり方は違うのか。アウグスティヌスは、父が子を生むのは、私たちの精神が概念を生みだすのに似ており、父と子が聖霊を生みだすやり方は、私たちの意志が愛を生むやり方に似ていると論じた。しかしこのアナロジーはどこまで字義的にとらえてよいのか。

 そもそも神の位格が生みだされるというのはどういうことなのか。無から生みだすのか。そうするとこれは創造となる。しかしキリスト教徒たちはこれを拒否した。初期の信条の解釈からは、子は父から創造されたのではないと信じられていた。理由の一つは創造であるならば、創造されたものは創造したものより劣位におかれてしまい、このような上下関係を神の位格のなかで認めることはできなかったからである。

 この研究はこのような問いに、ガンのヘンリクス、ドゥンス・スコトゥス、そしてウィリアム・オッカムがいかに答えたかを探求する。彼らの議論の前提となっていたのはアリストテレスアヴィセンナである。

 アリストテレスはなにかが無から生みだされるのは不可能だと考えた。すべてのものはそれ以前からある素材から生みだされる。よって質料をもたない不動の動者のような存在は決して生成を経験しない。

 一方アヴィセンナは非物質的な実体の「流出」を認めた。頂点にある神から知性や天球が流出してくるというモデルを提示したのである[詳しくはこちら]。流出の特徴は、流出源に比べて流出したものは力が弱まるという点にある。よって流出の過程が地上に到達するころには、力が非常に弱まっており、もはや流出は生じない。地上では素材にもとづく生成消滅があるだけである。

 まずアリストテレスの議論にしたがうと、非物体的な神はなにも生みださないことになる。これは教義に反するのでヘンリクスらは拒否した。では無から生みだしたと考えるべきか。こうするとアヴィセンナの流出モデルが適当にみえるものの、しかしそうすると子が父より劣位におかれるという問題が生じてしまう。彼らはアリストテレスのいうような生成でもなく、アヴィセンナのいうような流出でもないかたちで、父が子を生む、あるいは父と子が聖霊を生む、という事態を説明せねばならなかった。

 説明にあたり彼らはいくつかの前提を共有していた。まずすべての位格は同一の神的本性を共有している。同時にそれぞれの位格は固有の特性を持っている。たとえば父なら父性であり、子なら子性(filiatio)である。しかし謎めいていることに、これら三つの特性は、唯一の神的本性と完全に一致するとされた。なぜ別々に区別されているものが、同一のものとまったく同一でありうるのか。これはきわめて難問であるけれど、とにもかくにも彼らはこのような前提のうえで思考していた。