東浩紀 『ゲーム的リアリズムの誕生 - 動物化するポストモダン2』

 この本はほんとうに評価するのが難しい。少なくとも私にとっては難物でした。そもそもこの記事自体、出来があまりよくない上に、妄想が入っている気がします。でも、せっかく書いたのでアップしておきます。

ゲーム的リアリズムの誕生』の概要

 まず本書の内容を簡単に紹介します。本書で扱われるのは、東氏が「オタクたちの文学」と呼ぶ一連の作品です。「オタクたちの文学」とは、ライトノベル美少女ゲームを指すと考えて差支えありません。

 本書での東氏の目標は、90年代後半から2000年代前半にかけて現れた一連の作品を素材として、オタクたちの文学の特徴歴史的背景、そしてそれらの作品を分析する際に有効だと考えられる手法を明らかにすることにあります。

 具体的な内容は、前半の理論編と後半の作品論に分かれています。

 理論編で扱われているのは、乱暴に表現すると以下のような問題になります。どうしてキャラクターを中心に構築された小説が読まれるのか(Aパート)。そのような小説が生まれた歴史的背景は何か(Bパート)。そして、キャラクターを中心にすえた小説が、ゲーム的な発想を下敷きに書かれるとどのような特徴をもつことになるのか。また、そのような小説が持つ可能性は何なのか(Cパート)。

 後半部の作品論で扱われるのは以下のものです。『AllYouNeedIsKill』(小説)、『ONE』(ゲーム)、『Ever 17』(ゲーム)、『ひぐらしのなく頃に』(ゲーム)、『九十九十九(くじゅうくつも)』(小説)、『Air』(ゲーム)。

 以上が本書の大まかな内容です。

評価 - 理論編

 では評価はどうかというと、これが何ともいえないのです。繰り返しになりますが、評価がとても難しい。かゆいところに手が届きそうで、実際ときどき届くんだけれども、かなりの割合で届かないときもある…みたいな。

 私は理論編よりも作品論の方が高い水準にあると考えます。というのも、理論編にはいろいろと文句をつけることができてしまうのです。

 たとえば、(以下は読んだ人にしか分からない書き方になりますが)東氏の議論だとライトノベルとマンガのあいだの区別がつけられないように思います。

 東氏によれば、マンガはまんが・アニメ的リアリズムに依拠しています(56-59頁)。一方ライトノベルは、まんが・アニメ的リアリズムゲーム的リアリズムの両方に依拠するとされます(141頁)。

マンガ アニメ
まんが・アニメ的リアリズム
ゲーム的リアリズム

 したがって、ライトノベルとマンガとのあいだに区別がつけられるとすると、マンガはゲーム的リアリズムに依拠していないということになります(上の表にある?が×になる)。

 しかし、私の感覚ではこの主張を正当化するのは困難です。ライトノベルがゲームの製作手法から影響を受けてきたと言えるならば、少なくともそれと同程度にはマンガもゲームから影響を受けてきたとしか思えないのです。

 とすると、ゲーム的リアリズムという術語でライトノベルを特徴づけるのは果たして適切なのか、という疑問が生まれます。ゲーム的リアリズムライトノベルに適用できるのならば、マンガにも適用できるのではないか。もし適用できないならば、その理由を説明してほしい。また、もし適用できるなら、「オタクの文学」の特徴としてゲーム的リアリズムという術語を使用するのは適当なのか。こういうことを東氏に聞きたくなります。

 他にも前半の議論は、具体的な作品分析から導かれた理論というよりも、先行研究の整理から導かれた理論ではないか、という文句をつけたくなります。これについてはgenesisさんがうまく表現されています。

 大塚英志を骨格に置いて、柄谷行人新城カズマ伊藤剛稲葉振一郎笠井潔を接いでいっているので、ちょっとした負荷で崩れてしまいそうな危うさを感じます。

 あと、自然主義が透明な文体、神話が不透明な文体。ライトノベルは半透明な文体。だからセカイ系のような作品が生まれる(96-98頁)、というのも、理論をもてあそんでいるだけのような気が…。

 とまあ、前半部についてはいろいろと個人的に言いたいことが出てきます。

評価 - 作品論

 しかし、後半で行われている作品論は優れていると思うのです。もちろん、私が優れていると感じるのは、東氏の分析が私の個人的実感をかなり裏書してくれるからで、この議論にどれだけの人が説得されているのかは分かりません。ブログを見て回っても、後半の作品論について論じたものはほとんどないのです。

 ともかく、『Air』や『ひぐらしのなく頃に』といったゲームにおいて、個々の物語をより上位の視点から見るというプレイヤーの立場が、表現の重要な起点とされていることは間違いないと思います。そして、このようなプレイヤーの視点を脅かす方向で作品を作るか、それともそのような視点を擁護する方向で作品をつくるかというのは、確かに大きな分岐点なのです(だからこそ、この点が批評の対象となりうる、たぶん)。

 東氏の議論に問題があるとすれば、このような作品が生まれる背景と、『動物化するポストモダン - オタクから見た日本社会』で展開された時代認識とがうまく接続されていない点だと思います。

 『動物化するポストモダン』の中で東氏は、かつては大きな物語があった。その次に、物語をサブカルチャーとして捏造する時代が来た。そして95年以後は、もはや物語はつくられず、小さな物語への欲求とその背後にあるデータベースへの欲望とが切り離されて共存する時代が来たと論じました。

 しかし、たとえば『ひぐらしのなく頃に』と言う作品の巧妙な点は、個々の小さな物語のみならず、作品の背景をなすデータベースの部分もプレイヤーに提示していることにあります。どうも、東氏が「解離的」と呼んだオタクの性質を逆手にとって、プレイヤーを物語へと引きずりこもうとしているように思えるのです(この点は〔ついでに〕のところでも少し書きました)。このあたりで、東氏が『動物化するポストモダン』の時点では予期していなかったことが起きているのではないかと。

アメリ

 ここからはつぶやきのようになります。

 東氏の『動物化するポストモダン - オタクから見た日本社会』で、最も面白かったのは実は第1章でした。そこで東氏が論じていたのは、「オタク的な日本のイメージは、このように、戦後のアメリカに対する圧倒的な劣位を反転させ、その劣位こそが優位だと言い募る欲望に支えられて登場している」ということでした(23頁)。また、マンガやアニメがアメリカからの輸入文化であるという点については、大塚英志氏が『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』で強調している点でもあります。

 このような主張を聞いて私が思い出すのは、オウム真理教が自前の空気清浄機にコスモクリーナーという名前をつけていたことです。コスモクリーナーとは、『宇宙戦艦ヤマト』に登場する機器の名前です。そして、ヤマトとは戦艦大和のことです。大和はアメリカ軍と戦って(戦ったと言ってよいかは分かりませんが)沈没しました。

 ここに至って、宮台真司氏による次のような不気味な発言が思い出されるのです。

 麻原彰晃は強烈な反米主義者だった。その麻原はサブカルチャー好きでもあった。サブカルチャー好きと反米との間には密接な関係がありうる(『援交から天皇へ』、文庫版、231頁、強調引用者)。

 オウムの母体は80年代のサブカルチャーで、90年代、2000年代のサブカルチャーとは一線を画すようにも思えます。しかし、それはともかくとして、現在オタク系の産業といわれているものと、アメリカとの関係には、もっと歴史的な考察が加えられるべきだと思います。戦後の日本の文化の大体は、アメリカとの関係から理解できてしまうのではないかとすら私は思っているのですが…。

 とにかく東氏もこの問題に関心を抱いていると書いているので(『動物化するポストモダン』、38頁)、ぜひやってほしいと思うわけです。それに、いまの東氏の一番の弱点は、その分析に歴史的な史料調査の裏づけがないことなのです(と、最後に放言を)。

〔ついでに〕

 東氏の議論とはまったく関係ありませんが、sakstyleさんが紹介されている笠井翔氏の議論は私の実感と非常に近いものがあります。

 新しい伝奇小説の作品たちは、物語の主人公たちと自己とをバッサリと切り分けた上で、物語の展開していく場そのものに、鑑賞型感情移入という新たなリアリティを見出そうとする姿勢から読み解かれる可能性を持ち合わせている。

 思うに『ひぐらしのなく頃に』という作品は、この「鑑賞型感情移入」の典型例です(以下の記述は『ひぐらし』をやっていないと理解できません)。東氏は羽入をプレイヤーと同一視させることで、製作者である竜騎士07さんがプレイヤーを物語の中に引き込んでいると論じています。確かにそのような側面があるのは事実です(「祭囃し編」の冒頭)。

 しかし、『ひぐらしのなく頃に』においてより重要なのは、竜騎士07さんが、「物語の展開する場そのもの」をいわば種明かし、その上で、そのような場でどのような物語があり得るかをプレイヤーに想像させている点です(「皆殺し編」の冒頭)。

 つまり、物語の展開する場を提示することで、物語が生成する現場へとプレイヤーを引き込んでいるのです。その上で自分が考えた物語の可能性を読者に見せる。うまく表現できていないのですが、『ひぐらしのなく頃に』がプレイヤーを巻き込んでいるとすれば、おそらくこのような形でだと思います。

本文を書く上で参考にしたブログ記事